第13話 ミスター・パーフェクト

 セントラルの目抜き通りにある三角形のケーキ屋。一つ四百五十円のアップルパイが売られている。

 それだけでも候補は絞られたが、その片手の数まで減ったケーキ屋の一つもケヴィンは実際に足を運ばなかった。ドミトリから都合のいい日程を、それはテレビ局での収録から一週間以上経った土曜日の真昼間だったが、指定されて、十分な時間があったにもかかわらず。

 その店は午前九時から営業していた。目抜き通りとその名の通り、面した通りは広く、広い二車線道路はそのままセントラル駅前に続いている。二重のペデストリアンデッキにバスターミナル、地下道への入り口、街合わせに使われる女神像、それらが遮る者なく見通せる。

 ケヴィンは仕事着のスーツ姿で指定時刻の十分前に店に入った。

 時刻は間も無く十一時に差し掛かろうとしていた。店内にはケーキを並べたショーウィンドウとレジスター、そのそばに掃き出し窓を改装したテイクアウト専用の受け渡し口がある。客足は絶えないが、店内で席についている人数はそう多くない。

 通りに面した窓際の席を擦り抜け、奥の壁に寄せられたボックスソファの席につく。

 すぐに店員が水入りのグラスとナプキンを二つ運んできた。既に待合であることは伝えてある。他の客が皆善良で和やかな私服だというのに、まるで葬式帰りか、債務の取り立てに向かうような格好の男に対しても、店員は極めて礼節を持ってメニュー表を示し、今月のおすすめのケーキを案内した。

 メニュー表はレザー素材のカバーが被せられている。表紙の中央にはコック棒を被った熊が金色の糸で縫い付けてあった。

「コーヒーと、アップルパイ、ベイクドチーズケーキ」

「アップルパイに」店員が小さく唾を飲んだ。「バニラアイスをかけることもできますが」

「じゃあそれも」

「はい」

「それと、コーヒー一つ追加で」

 予想だにしなかった真後ろからの声に、店員が手にした小さなバインダーを取りこぼす。しかしそれが木目の濃いフローリングに転がる前に、ドミトリが「あっと」と声を上げてキャッチした。

「すみません、驚かせてしまって」

 そう言って汚れてもいないバインダーと挟まれたメモ紙の表面を手のひらで掃き、ドミトリが差し出す。

 店員は数秒固まっていたが、すぐに差し出された小さなバインダーを受け取った。表彰状を受け取るように、両手で。

「早いな」

 店員がショーウインドウのさらに奥、厨房へ戻ってからケヴィンが言った。ドミトリは既にテーブルを挟んで左右対称なソファに腰掛けている。人気バンドのメンバーだというのに、昼間の土曜日、ドミトリは帽子も眼鏡もかけていなかった。黒のハイネックに厚手のジャケット、黒のパンツにフェイクレザーのスニーカー。

 既に窓際で文庫本を開いていた女性客の一人が一度こちらへ視線をやってからというもの、どこか緊張している様子だった。捲ったばかりのページがもう二回も戻されている。

「それを言うなら、カタギリさんこそ」

「ボスが相手だからな」

「本当に間違えず会えるとは」ドミトリは子供のように目を輝かせた。「このあたりは毎晩走っていますが、一度もカタギリさんをお見かけしませんでした。この店のことは覚えていたんですか?」

「いや」

「じゃあ、勘で?」

「この店のテイクアウトに付いてくるコーヒーシュガーが家にあった」

 ドミトリはすぐに合点がいったらしい。ああ、とそれだけ言った。店員が二人の注文を運んできていることに気づいていたというのもあるだろう。

 店員はソーサーに乗ったコーヒーをそれぞれ二人の前に置き、そして飴色にシナモンと焼き目でコーティングされたアップルパイと、卵色の、気泡ひとつない断面を晒すベイクドチーズケーキをテーブルの中央に置いた。ごゆっくり、とかすかに低頭した際、視線が確かめるように一瞬ドミトリを見たのを、ケヴィンもまた見ていた。

「砂糖とミルクは?」

 テーブル席にはそれらを収めた小ぶりなポットがあった。陶器のそれは、表面に触れると冷たく、つるつるとしている。

 ドミトリは何も言わず微笑んで、コーヒーカップを口に運んだ。

 ケヴィンは氷が一つ浮いている水入りのグラスを手に取った。一口飲んでテーブルへ戻す。グラスの表面に指の輪郭を結露が縁取っていたが、まもなく消えた。

「お加減はどうですか、あれから」

 カップをソーサーに戻し、ドミトリが言った。

「どっちの加減だ? 体か、頭か」

「頭ですね」

「お前は驚かなかったな、結局」ケヴィンはチーズケーキの皿に添えられたフォークを手に取った。「ただの一度も。恋人が轢き逃げに遭っても、目が覚めたと聞いた後にやってきた」

「本当なら毎晩手を握っていても良かったんですけどね。先ほど言ったように、毎朝のランニングがありますから」

「俺は健康的な習慣以下か?」

「以下だと言ったところで、悲しまないでしょう、あなたは」

 ドミトリがかすかに首を傾げた。瞼の線は柔らかく山なりにたわみ、口元と頬、全てに余計な力が入っていない。

 チーズケーキはフォークが差し込まれても無音だった。よくなめされ、焼き目がついた表面は冷えた溶岩のように複雑な凹凸があったが、その膨らみを潰された時でさえ、その奥にあるクリームが金属も物音も飲み込んだ。

 先端を小さく削ぎ落とし、ケヴィンはそれを口に運んだ。ねっとりと冷えたチーズ、底に敷かれたビスケット、それらが舌の上で混ざり合って広がる。バニラビーンズとレモンの匂いがした。

 

「俺にも日課がある。毎朝目を覚ましたら、コテージの周りを散歩することだ。すぐそばに葦が一面に生えた原があるから、そこをただ歩く」

「いいですね」

「葦がどんなところに生えるか知ってるか?」

「野原でしょ?」

「湖や沼、川のそばだ。ましてや地表に一メートル以上伸びる葦が群生していれば足元は留守になる。退院してからもう二人助けてやったよ、セントラルからの帰り道にわざわざ下道を選んで、道路沿いに見える葦の群れに感動して突っ込んでいったカメラマンたちを」

 ケヴィンはチーズケーキに、今度は縦にフォークを刺した。泡ひとつない美しいチーズの中へ抵抗なく沈んでいく。滑らかなクリームが細い三叉の金属にまとわりつき、ひとくち分切り離すと、綺麗に跡が残っている。

「お前は一眼レフを落とさなかっただけ彼らより運がいい」

 事故から目を覚ました直後、見知らぬ男が自分達は恋人だと主張した。ケヴィンはその男の言動を半分も信用していなかった。態度、挙動、顧客という関係からはそれらしい可能性ももちろんあったが、結局主張を裏付ける根拠がなかった。

 そしてその翌日、別の男がやってきた。男は「自分達は恋人だった」と主張した。

 二人目の男の主張もまた突拍子のないものだったが、この男は少なくとも、ケヴィンの自宅コテージの棚にあるDVDの内容や、滅多に他人へ伝えない嗜好について知っていた。

 ドミトリ・カデシュの言動には、だから当時から一定の信憑性はあった。

 退院し、コテージ内を調べ、テレビ台側のラックに並んだDVDに「マッドシャーク・サイクロン 愛と狂気の地中海」があること、セントラル目抜き通りにあるケーキ屋のシュガースティックの包装紙を見つけたことで、ドミトリの言動は全くの真実であることが確認された。

 ドミトリはこのコテージに来た事があるか、あるいはそれだけ個人的な話をケヴィンから聞いたことがある。

 ケヴィンはさらにコテージ内を洗い出したが、内部は驚くほど整理されていた。見つけたものはそう多くない。ほとんどないとも言える。

 そもそも突然の交通事故に遭ったにしては、ゴミ箱の中はほとんど空であった。最寄りのゴミ回収の曜日は事故の二日前で、次の回収は事故の翌日だったというのに。あったかもしれないドミトリの痕跡もおそらく捨てられたのだろう。

 それから数日経って、ある日の明朝、突然庭先から人が言い争うような声を聞いた。ケヴィンはコテージから散歩へ出て、葦の沼地を今まさに一周しようと歩き出していた。

 振り返ると、ちょうど自分が散歩を開始したぐらいの場所で二つの頭が動いていた。わざと浅く被ったニット帽子が葦の穂波の間で揺れ、言う側も聞く側もうんざりするような人の声が聞こえてきた。

 ケヴィンが沼地を一周して戻ってきても、その二人はまだそこにいた。ほぼペアルックの格好で、揃っていないのは、片方が首から提げている一眼レフがもう一人——葦の根元の泥に深く足を取られた男——の首には無かったことだ。

 仲睦まじいカメラマンたちを引き摺り出し、外の水道を使わせてやってから、ケヴィンはもう一度沼地の方へ行った。

 するとそこに一足のスニーカーが落ちていた。先ほどの二人よりも前に、もう一人犠牲者がいたらしい。

「どこかで見た靴だと思ったら、お前がいつも履いているスニーカーと同じものだった。サイズも靴紐も」

「ああ、あの靴見つかりましたか」

「鴨が巣に使ったらしくて葦の茎が突っ込まれてたが、持ってきたほうがよかったか?」

「ご存知の通り、同じものをもう買ったので大丈夫ですよ。どうぞそのままで」

「それは助かる。あの鴨の親子も折角見つけた別荘を手放すのは口惜しいだろうからな」

「俺も、あなたから借りた靴を気に入っているんです。このまま貰っていいですか?」

 ドミトリが足を組み替え、上になった左足のつま先を揺らした。フェイクレザーの靴は、時と場所を選ばないだけの外見を備えてはいるが、その実本革でないだけに安価だ。激しく走ったりすればすぐに筋がついてしまうし、実際いまドミトリが履いているそれにはついていたが、なにぶん購入価格を思えば気兼ねなく履き潰すことができる。

 ただそのせいで、ケヴィンのコテージにあるシューズボックスは閑散としている。

 四段の収納には同じように履き潰れる寸前のブーツの他には、仕事用の革靴しかない。ましてや今日、その革靴を履いているから、あのヴィンテージ加工を極めたダメージブーツはひどく心もとない気分で暗い靴箱の奥にいることだろう。

「欲しけりゃくれてやるが、私物だからな。金を払え」

 ドミトリは目を瞬かせる。ケヴィンは続けざまに言った。

「好きだろ、金で解決できる問題」

「……解決できない問題よりは、という意味ですけどね」

「デートらしくなってきたな」

 ケヴィンはチーズケーキの最後の一口を頬張り、テーブルの端にある筒状のプラスチックに差し込まれた伝票をドミトリの方へ押しやった。

 周囲の客の何人かはたびたび、例えば咳払いや頼みもしない追加メニューを考える仕草に隠して視線を送っていたが、話している内容までは聞き取れないだろう。挙句、ドミトリは素顔を晒しているし、ケヴィンもまたそうだ。

 やがて彼らは、顔も隠さずに話すような内容に緊張感を持って耳をそば立てることは、自分の前にある洋菓子を犠牲にしてまですべきことではないと判断したらしい。

 店内が雑然と人の話声に包まれ出したとき、ドミトリはどこか感慨深そうにため息をついた。

「もっと詰め寄られると思っていました」

「こんなに人目のある場所でか?」

「やろうと思えばできるのでは」

「何事もそうだが、しかし俺にそういう振る舞いを求めるな。俺の仕事は番犬と同じで、むしろ吠えないだけ番犬より仕事はひとつ少ない。俺はただそこにいて、番犬注意の看板の代わりに堅苦しい面をしてスーツを着る、これだけだ」

「確かに、今のあなたに好き好んで寄り付く人はいないでしょうね」

 ドミトリが自分の右瞼を指で叩く。鏡合わせとすれば、その位置はケヴィンにとって左瞼だ。

 

 ケヴィンは水を飲んでから、溶け始めたバニラアイスが滴るアップルパイを見た。どこからどう食べるべきかを。

「なら、そんな俺に寄り付いてくるのはどういう人間なんだろうな」

 取り急ぎ、アップルパイと接触しているバニラアイスを切り離すようにフォークを入れ、白く霜を纏った表面を掬って口へ運ぶ。

「そりゃ、下心がある人じゃないですか」

 すっきりとしたヨーグルトに近い味わいだ。口の中に甘さが残らない。舌触りは確かにあるのに、どこか懐かしい、子供の頃食べたジェラートに近い。

「お前にもあるのか、下心」

「ありますよ」

「どんな?」

 ケヴィンはフォークを置いた。悩んだ末、手で掴んで食べた方がいいと判断したからだ。バターとシナモンの匂いを立ち上らせるパイ生地で刺繍された表面、薔薇の花びらのように並べられた皮付きの林檎。

 右手で外側の硬いパイ部分を持ち、そのまま鋭くカットされた先端部分に歯を立てる。想像通り、何層にも重ねられた林檎とカスタード、そしてカスタードの中にも混ぜ込まれたキューブ状のリンゴが左右の側面から口の中へ溢れた。まだ焼き上がりの温度を残すパイと冷えたクリーム、林檎をまとめて咀嚼する。

 ドミトリからの返事がなかった。ケヴィンが伏せていた目を開くと、ドミトリは頬杖をついてただ正面を見ていた。ケヴィンの顔か、あるいはさらにその奥の壁、もしくは壁際の天井に吊り下げられたテレビか。

 ケヴィンがさらにもう一口食べ、十分に咀嚼し、飲み下す。その後にようやくドミトリが口を開いた。

「俺は俺の好きなものに囲まれていたいんです」

「ふん」ケヴィンは半分まで減ったアップルパイを皿に戻した。「それで?」

「ミラン、666、そしてあなたが、今のところ俺の好きなものです。ミランと666については、俺自身が関わっているのでいいとして、問題はあなたです」

「俺か?」

「あなたの考えていることが理解できない」

「教えてやる」ケヴィンはフォークでパイの硬い部分を叩いた。「このアップルパイはとても美味しい」

 残りのパイにバニラアイスを乗せ、フォークで丁重に半分に割る。なおもこぼれてきたカスタードとブロック状の林檎も丁寧にパイへ乗せ直し、ケヴィンはそれを口に迎え入れた。

「美味い食事、勤労に相当する対価、それから健康的な肉体。お前の理屈に則って言えば、俺はこいつらに囲まれていれば文句は無い」

「あなたがそんなに簡単な理屈で生きていてくれたら、俺たちはきっと今でも恋人同士だったでしょうね」

 事故から目覚めた翌日、ケヴィンの病室を訪れたドミトリは言った。「私たちは恋人同士だった」と。

「俺たちはどれぐらい清い交際をしていたんだ?」

「一ヶ月と少しですね、あなたがその素敵なチャームポイントを増やしたことで、ついに告白に至りました」

「短いな」

「そうですね」

「振ったのか、振られたのか?」

「振られました」ドミトリは一貫してやはり笑顔だった。「人を殺す予定だから別れておきたいと」

 突然、湧き上がるような拍手の音が聞こえてきた。ケヴィンはハッとして、分かりきっている音源へと、極めてゆっくり振り向いた。

 そこには一台のテレビがあった。あからさまにレトロな色合いの、赤いペンキで塗られた小型テレビはまるでテーマパークの飾り物のようだ。しかしそれはれっきとしたテレビであって、画面にはオーケストラが立ち並ぶステージが映っている。世界的にも著名なこの国最高峰の楽団、ケーニッヒ交響楽団の定期演奏会の映像だった。

 ワックスで綺麗に撫でつけられた黒髪。長身に燕尾服を纏った貫禄のある指揮者が指揮台へ立つ。凛とした後ろ姿はまさしく枝を掴む鳥のように、鷲鼻をぐるりとステージ上へ巡らせる。

 指揮棒が振り上げられる寸前、ケヴィンは顔の向きを戻した。

 背後で高らかに演奏が始まる。テレビの音量自体は小さく絞られているにもかかわらず、その演奏や人々の体の動き、仕草が頭の中に思い浮かぶ。

「悪い、よく聞こえなかった。お前の黒子が気に食わないから別れてくれ、だったか?」

「人を殺す予定ができたから別れてくれ、です」

 アップルパイがまだ残っていた。溶けたバニラアイスがカスタードや生地に染み込み、絡み合っている。白い液体が流れていく。

 これはとても美味しいアップルパイだ。私はこれが好きだ。

 小学校の教科書にありそうな簡単すぎる文章がケヴィンの頭に浮かんだ。

 最後の一口を手に取る。フォークを右手に持ったまま、左手で取った。

 しかしその一口がケヴィンの口に届くよりずっと前に、テーブルの向こうから別の手が現れ、ケヴィンの左手首を掴んだ。

 指を引っ掛けた、という方が正しいかもしれなかった。ドミトリの手にはほとんど力がこもっていなかった。そのために、ドミトリはほとんど自分の顔を近づけるようにして最後の一口を自分の口に収めた。

「ああ、やっぱりこのお店のケーキは美味しいですね」

 花が散るような笑顔でドミトリが言った。責められるところの全くない子供のような表情で。

「少し歩きませんか」続けてドミトリが言った。「私に聞きたいこともあるでしょうし、私も私で、ずっと聞きたかったことがあるんです」

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