第12話 頭から突っ込め

 収録は予定時刻から二十分ほど遅れて始まった。

 毎週二グループを招いてそれぞれお互いの曲を交換して歌う。MCとのトークはグループごとに行う。リリース情報や番組の宣伝を絡め、視聴者がチャンネルを変えられないギリギリの塩梅で演奏とトークを繰り返す。

 そのために収録は演奏部分とトークを分けて行う必要があった。テレビ局で契約するバックダンサーやバックバンドがスタジオ内のステージで既に待機している。

 収録開始が遅れた原因だった機材トラブルは他スタジオの備品と取り替えて事なきを得たらしい。先に収録を行うM.E.のメンバー三人がステージに乗り、スタンドマイクや立ち位置を確認している。

「歌って踊るって大変だね」

 青い直線状の細いライトが交錯するステージの外、スタジオ全体はほとんど消灯して薄暗い。セットから距離を置いて用意されたテーブルに座ってパフォーマンスを待つドミトリは感心したようにステージ上で位置取りを繰り返すM.E.のメンバーを眺めている。

「俺なんて歌詞と演奏だけで手一杯」

「俺たちはそれでいい」ミランが短く言った。「表現はそれぞれだ」

「この間テレビで見たけど、クラシックの楽譜に、演奏者が楽器に頭から突っ込む、っていう指示があるらしいよ、ミラン」

「それを俺に言ってどうしたいんだ」

「面白いと思わない?」

「思わない」

「ええ……」

 ドミトリは残念そうに眉を寄せたが、ミランの言い方に棘は無かった。

 ケヴィンはテーブルのそばに立っていた。目を覚ましてからまだ一週間と経っていないが、666というバンドの、ミラン・アーキテクトとドミトリ・カデシュの関係性が分かってきた。雑誌やテレビのインタビューでは冷徹で率直なミランをドミトリがその温厚さでカバーし、この二人は剣と鞘のようである。

 それは間違いではないが、第三者の目がないと、この二人はどちらも剣の方だ。そして寧ろドミトリの鋭さをミランがいなしている。そうしてミランがいなしている限り、ドミトリの率直さとでも言うか、容赦のなさは他の人間に向かない。

 互いに無いものを補い合うというよりも、ひたすらに似たもの同士の二人と言えるだろう。純粋で容赦が無い。それでも真逆にさえ見えるのは、単に物言いの話だ。

「カタギリさん?」

 いつの間にか会話の中に取り込まれていたらしい。ドミトリが椅子の背もたれに肘を置いてケヴィンを見上げている。「どうかしましたか?」心配そうな声と優しい笑顔。

 ケヴィンは口の中で歯を噛み合わせた。音は鳴らない程度の動きだ。顔にも出ない。

「何も。楽しいお喋りに俺を巻き込むな」

「ケヴィンさんは楽器に頭から突っ込んだことあります?」

「ティンパニは専門外だ」

「ああ」ドミトリはそこで顎を指で叩いた。「そうそう、あの楽器はティンパニだ」

「詳しいな」

 ミランが不意に言った。平常時で声の温度が低いだけに、不意に口を開いた時に驚かされる。事実、同じように周辺でリハーサルのために動き回ったり、行程を見守っているスタッフの数名が突然こちらを向いた。——そしてただミランが口を開いただけと気づくと、自分自身の反射神経が刺激されたことを不思議そうにしてそそくさを顔を背ける。

「マウリシオ・カーゲルの“ティンパニとオーケストラのための協奏曲“だろ」ケヴィンはぼんやりとステージに目を向けたまま言った。「珍しい事じゃない。同じカーゲルの曲の“フィナーレ“でも最後に指揮者は倒れろとかいうふざけた指示がある」

「詳しいな」

 もう一度、全く同じ言葉をミランが言った。「とても詳しい」

 ケヴィンが視線だけでそちらを見ると、ミランは椅子に座り、腕を組んだ姿勢でケヴィンを見ていた。よほど眼球の水分量に恵まれているのか、暗さのために目の負担が少ないのか、四秒見合って瞬きもしない。

「数秒フリック入力すりゃ、何千何百のブロガーがお前の為に世界の珍しい演奏指示百選を作ってくれてるだろうよ」

「クラシックが好きなのか?」

「話を聞かない人間よりは好きだな」

 ステージから高く歯軋りようなハウリングが鳴った。リハーサルが始まる。M.E.が今夜カバーアレンジを披露する曲は二曲だ。666の出世作ともなった”darker in the dark”とある文学作品の狂気的モチーフをタイトルに書き上げた”M of M”。

 どちらも不安を煽るような低音のコーラス、ベース、ドラムを多用したロックだ。どちらかといえばポップミュージックを多く歌う彼女らはそれをあえて明るさと穏やかさを盛り込み、原曲コードとの落差で元々のテーマをより強く打ち出す方法を取ったらしい。

 センターでマイクを握ったイミーナが歌い出すと、その声は徐々に機械音に侵食され、エレクトリックに狂っていく。オートチューンでピッチを変更し、音程の幅を複雑に操作することで自然な地声のソプラノと不自然な機械音声じみたそれとを上手く両立させる。

 歌と、そして彼女たちの規則的なダンス——それは動きだけでいえば軍隊じみた規律さえ感じるのに、彼女たちの白い手足やスパンコール生地を重ねたタイトなブルーのドレスが、そこに妖艶さを感じる視聴者を不思議がるようにライトを反射する。

 

 いいね、と誰かが——おそらくステージを見ていたスタッフだろうが、言った。

 まるで言い訳のように、自分の鳴らした喉を誤魔化すような呟きだった。だから同調するものは誰もいなかった。

 ケヴィンは無意識に左目の傷を触っていた。顔に触れてからそのことに気づく。変な癖がついてしまうのは避けるべき事態だ。

 そう思って手を下ろすと、誰もが一心にステージに向けている何本もの視線と交錯して自分に突き刺さる一本の視線を覚える。

 ケヴィンはそちらを向いた。案の定、そこには椅子の背もたれに肘をついたドミトリが目だけこちらを見ている。ケヴィンの視線が返されると、目尻だけで笑った。

 ドミトリが音もなく椅子を立った。遅れてミランも席を立つ。続けざま666の収録に移行するようだ。ステージから響く歌声は二曲目のラストサビに入っている。

 ミランとドミトリがステージ脇に搬入されていた楽器を手に取り準備している。ケヴィンは無人になったテーブルのそばに待機していた。これ以上前に出るとカメラに移るし下手な物音はマイクに拾われる。

「いいですね」

 それをケヴィンは独り言だと判断したが、言った当人の男は会話のつもりだったらしい。相槌も返事も無いと、たっぷり十秒以上経ってから「クイーンズが直々にスカウトしただけはある、そう思いませんか」と質問を投げかけた。

「俺に意見を求めているのか?」

 ケヴィンが視線を666から外さないまま答えると、男はその口調にかすかに動揺したようだった。敬語がなかったからか、即座に同意が返ってこなかったからか。

「クイーンズ専属のガードマンともなると、やはり耳が肥えている方が担当なんでしょうね」

 男がどこか卑屈そうにも、哀願するようにも見える曖昧な笑顔を浮かべた。ケヴィンはそれを一瞥した。しかしそれは一瞬のことだ。少し考えて「そんなことはないと思うが」とやや声を小さくして言う。

「耳が肥えたところで、そんなものは殆ど役にも立たない。給料も増えなければ、人生の感動を無為に減らすだけだ」

「崇高な考えをお持ちなんですね……」

「君は随分感受性豊かなようだな、素晴らしいことだ」ケヴィンはもう男の顔を、服装を見ていなかった。「そして君はとても衛生的だ、これも素晴らしい」

「えっ?」

「エレベーターですれ違った時と服が違う。パーカーも、中に着ているシャツも。俺に会うからわざわざ着替えてきたのか?」

 男が自分の服の襟元を握った。ケヴィンはそれを視界の端に眺めていた。エレベーターでは黒いパーカーと赤いTシャツであったのに、今はグレーと白にそれぞれ色が変わっている。特に汚れているわけでも、昨日徹夜の格好のままのはずはない。あのエレベータで見かけた時、男は年配の上司と一緒だった。着替えが必要ならその前に着替えているはずだ。

 そしてもし666やM.E.の為に着替えたと言うなら、もっと上等な服に変える。

「あの赤いシャツは君に似合っていた。俺はあっちの方が好みだな」

 ケヴィンの見ている先でステージにミランとドミトリが上がる。ライトは一時的に切られているが、ステージの足元に置かれやライトのほのかな明かりはそのままだ。

「シャンプーは何を使ってるんだ? それとも香水か? それもいい匂いだな、銘柄を教えてくれ」

 ケヴィンは男の腕を離さなかった。辛うじてフットライトで照らされているステージの外は暗い。暗さに慣れた目なら人とぶつかることはないだろうが、今はまだ、ケヴィンが男の腕を掴んでいることも、男の首に浮いた冷や汗も見分けることはできないだろう。

「何をそんなに震えてるんだ。抱き締めてやろうか?」

「勘弁してください」男の腕は強張って、石のように硬く冷えていた。「ガードさん……まさか、貴方の顔に傷をつけるなんて」男は自由な方の手で口元を乱暴に擦った。「そんなつもりはなかったんです」

「リラックスしろ、スコット君」ケヴィンは男の荒い息に眉を寄せた。視線はステージへ向けたまま。「息がうるさい。俺の顧客の仕事中に、そんな下卑た音を出すな」

 泣くまい泣くまいとこらえる幼い弟をあやす兄のような振る舞いがケヴィンに求められていたが、そういった振る舞いを求められていることをケヴィンは心底辟易をした。

 それはケヴィン自身が弟であるからとか、兄側の振る舞いを求められることに不服であったからではない。

 ただ単に、他人の感情の尻拭のために使い捨てのティッシュでもなく、自分の手を使われることへの不快感だ。よりによって動揺や混乱など、喜怒哀楽としての感情にすらなっていないお粗末な発作への対処は専門家が必要だ。

 法的根拠による説得と威嚇、制圧以外の対処はガードマンの知識にない。

「ランドルー・スコット君」

 ケヴィンはついに考えることを放棄した。元より手っ取り早い話の方が好きだ。精密なチェスで勝利を収めるより、出たとこ勝負のルーレットの方が楽しめる。「君が俺の顔に傷をつけたのは、君自身のためじゃない。そうだろ?」

 ケヴィンは初めて顔ごとその男の顔を見た。二十代後半か三十代前半のまだ若々しい顔だ。少なくとも傷と隈を黴のように生やしたケヴィンより、世間は彼の方を歳下と判断する。その両頬にうっすらと浮いたそばかすと、軽くウェーブがかかったマッシュヘアもその世論を保証する。

 男の目に涙以外による光の反射が映り込んだのをケヴィンは見た。貪欲な光の反射だった。表面が歪な光の反射。ぬめりを帯びた光の動き方。許しの匂いを嗅ぎつけた加害者の目。

 

「はい、はい」囁くように、だがしっかりとした声で男が肯定した。「そうです、僕はただ、ただ……そうです、お二人を尊敬していて、あの二人が上手くいってほしいと思っていただけなんです」

「君の気持ちはわかるよ、俺は俺でその気持ちがあった」

「ああ、」

「だが俺が親友のウィンターに肩入れして関わってしまったのがいけなかったんだ。タゴン氏とウィンターが上手くやっていこうとするには、俺や君が想像するよりずっと長い時間が必要だったんだろう」ケヴィンは男の頭にパーカーのフードを被せた。「そしてその努力をする時間を俺が奪ってしまった、ウィンターは慣れない結婚生活の先にある素晴らしい未来じゃなく、目の前にある友人との気楽な生活を選んでしまった。愚かな選択だ。こうして君のような心優しい……」

 ケヴィンは一瞬言葉を切り、気の毒そうな表情を男へ向けた。シャッターを切るように顔の動きを変える。その数秒で頭は七回転し、適当な言葉を見つけた。「——心優しい“家族“を、傷つけてしまったのだから。しかし不幸中の幸いと言うべきか、俺は丈夫な体をしていたし、俺は君の優しさを知ってる。君は確かに悪いことをしたかもしれないが、君自身は悪人じゃない。それでいいんだ。問題は全て解決した、あとは君が吹っ切れるだけだ」 男はもう隠す素振りもなく涙を流して頷いていた。流石に異常に気づいたのか、周囲で666の生ライブを期待していたスタッフの数名が遠巻きに視線を送ってくる。

 そのうちの一人にケヴィンが視線をやると、スタッフは足早に寄って来た。スタッフ同士知り合いというわけでは無いらしいが、同じ局の職員が部外者の真横で嗚咽しているのは見過ごすわけにもいかない——ましてやクイーンズレコードの関係者の前で。

「疲れているようだ」

 と、ケヴィンはいつ間にか自分の方が掴まれていた腕を振り払い、そのスタッフへ男を寄り掛からせた。「何も聞かずに休ませてやるといい、何も問題がなくとも、こういう感情の発散が必要な時もある——ああ、それとこれも」

 困惑しながらも男をスタジオの外へ連れ出そうとするスタッフへ、ケヴィンは手に持っていたものを差し出した。ICカードの入ったネックホルダー。

 厚みのあるカードには、男の名前と所属部署、緊急連絡先まで丁重に印字あるいはメモされている。

「鼻水で濡れているから気をつけて」

 引きずるようにスタジオの外へ男が連れ出される。出入り口付近にいた他のスタッフも顔を見合わせていたが、それは長く続かなかった。

 溜息。

 それはマイクに口づけするような距離にあるミランの唇から漏れた音だった。

 続けざまに低いベースが走る。ミランの斜め後ろに立っているドミトリは俯きがちになり、その表情も視線も手元にだけ注がれている。まだステージ上で演奏をしているのは二人だけだ。

 原曲はM.E.のもので、彼女たちの曲にまさかこんなに這うような歌い出しのものはないだろう。

「——今日もまた日が暮れる 窓際の花瓶が冷える……」

 原曲を知らないのはこのスタジオ内でケヴィンだけだった。他のスタッフは皆原曲を知っていて、それは切ない恋人たちの姿を歌ったものだった。アコースティックギターでバラード調に仕上げた曲だが、今ステージ上にアコースティックギターを持っているものはいない。

「君のため、君のためとまるで呪文のよう」

「誰に何を言われたの? 誰に言ってるの?」

「私は何を言ったの? 私に何を言いたいの?」

「私のために何をしたの? 何が貴方のためになるの?」

「さっきからずっと、誰の話をしているの?」

 口調は不安げなのに、歌い上げるミランの表情は一貫して怪訝そうだ。そして視線は鋭い。曲調はロックだ。いつの間にかバックバンドが驚くほど激しく腕を振るっている。

「此処に誰がいるの? 誰が見えているの?」

 コーラスが入る。Who?と問いかけてくる。

「白々しい温度 軽々しいエンド 美しい幻想ねどれも」

 嘲笑するようにミランが歌う。小石を蹴り飛ばすような軽快さを失わない声だが、バントの音に埋もれることなくその先端を走っている。

「私のためと言うなら 今夜は一緒に眠って」

「それ以外のことは 目を覚ましてからでいい——」

 立ち位置のせいだとも言えた。真上からこのスタジオ内を見た時、ステージの真正面の位置にケヴィンは立っていた。だからミランが目を開ければ、自然とその直線上にケヴィンが立っている。ただそれはいくつかの偶然による結果でもある。

 スタッフが666やM.E.のために置いたテーブルの位置が右が左にずれていれば、その分だけ立ち位置は変わっただろう。あるいはM.E.が勤勉ではなくて、ステージパフォーマンス後だと言うのに足を投げ出すでもなく、ステージ脇から自分達の曲のアレンジを鑑賞していなければ、彼女たちがよりよくくつろぐためにステージ前に点在するスタッフは隅へもっとよっただろう。ケヴィンもまた。

 ほとんど睨み合うような視線の衝突は、実際は十数秒となかった。

 二番に入る。ミランもまた視線を落として、約十二秒間の間奏に加わる。

 ケヴィンは視線をかすかに横へずらした。ドミトリは手元だけを見ている——が、まるで図ったように一瞬顔を上げる。

 それに気づいたカメラが一台、向きと角度を変える。ドミトリは一度、ごく短く左目を瞑った。瞬きともとれる一瞬の出来事だった。だからミランが一瞬浮かべた不機嫌そうな眉の動きは、全区電波で放送されることはない。

 

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