第11話 メトロノーム
セントラルにある最も大きなテレビ局は地下三階、地上三十二階を有する建築物だ。これを超える高さの建物は電波塔と気象観測地点を兼ねる複合施設のセントラルタワーしかない。それだっていい勝負だった。
テレビ局の下層は正面玄関と総務が詰めている一階と二階を除き、スタジオがほとんどを占めている。そしてそのスタジオごとに編集室や楽屋、備品室と付随すればそれだけでフロアが埋まる。特殊撮影用のスタジオともなれば実質フロアを二つ占有することもある。
裏手の関係者専用入口から入り、正面玄関の守衛とはまた毛色の違う警備員に入局許可書を見せる。
十八時二十五分。移動時間は二十分弱で、専用地下駐車場入庫に三分。想定通りの到着になった。
「着いたぞ」
指定された場所にアルファードを停車させ、ケヴィンはシートベルトを外しながら後部座席を振り返った。この車はクイーンズレコードが所有し、666の送迎目的で貸し出されている。
自分の車より車体が縦に長いことよりも、やはりこの禁煙車であることがケヴィンを辟易とさせた。——後部座席でたった二人開催のトランプゲームの不毛さもまた、どうでもいいことだ。
「どっちが負けた?」
「ドミトリ」ミランが手に持っていた大量のカードを肘置きに置いた。綺麗な扇型に揃えられ、四十枚はある。
「ミランはこういう勝負事に強いんですよ」
負けたにしては爽やかすぎる笑顔でドミトリが同じくカードを置く。明らかにミランが置いた数より少ない。どうやらウォー・ゲームをしていたらしい。カードを人数分分け合い、一枚ずつ出して、数が最も大きいカードを出したものの勝ち。勝者は場に出たカードを全て手札に加える。それをただひたすら繰り返していくゲームだ。ここまで持ったことを考えると、マークは揃えるなどの縛りをいくつか課していたのだろうか。それでも随分と仲睦まじいことだ。
コンクリート打ちっぱなしの地下駐車場へ足をつけると、やけに靴音が響いた。
「じゃ、今日の楽屋対応はドミトリがやるということで」
「ミラン、もしかして最初からそれ狙いだったりする?」
そんなことを言い合いながら666の二人が車から降りると、同じように駐車場や裏口付近にいた関係者の視線が向けられる。局員やマネージャと思しきプレートを首から下げた男女のそれは控えめだったが、数名のグループになって移動していた若い男たちなどはあからさまに足を止めている。
「楽屋は十六階だ。移動する」
ケヴィンは辺りを見渡しながら二人の斜め前を歩いた。不自然な光の反射はない。不審者はそもそもこの専用駐車場にすら入れないだろうが、逆に言えば不審さをうまく包み隠せば入ること自体は難しくない(とはいえそれなりの手間と悪意がなければ出来ないことではある)。
まるで救急病棟のような小さな自動ドアを入り、受付を済ませ、長身の警備員が睨みを効かせる三列の認証ゲートを通る。
二つあるエレベータのうち、一つはこの階に留まっていた。上昇ボタンを押すとすぐにドアが開く。
十六階のボタンを押すなり、くぐもったモーター音で三人を乗せたエレベータが上へと巻き上げられていく。とても静かだ。そして磨き抜かれたグレーの内壁は、地下駐車場の退廃的なコンクリート壁と同じ色なのに、質感があまりに異なる。
ケヴィンは真横の壁に貼り付けられたテレビ局内のフロアマップを見た。
「喫煙スペースは十六階には無い」
ミランがふいに言った。ケヴィンの前に立っているというのに、背中に目がついているようなタイミングでの発言だ——という反応すら見越したように小さく笑う。
「世界は禁煙ブームなんだ、カタギリ」
「傍迷惑なブームもあったもんだな」ケヴィンはマップから目を離して言った。「少なくとも俺はこの国の税収に貢献してる」
「その税収以上の健康被害があるんじゃないですか?」これはドミトリが言った。
「税を納めて、とっととくたばる。これ以上ない納税者の鏡だろ」
「全区合同協議で制定されたライフモデルの真逆」
ミランが淡白な溜息をつく。その時、エレベータが緩やかに減速した。
エレベータが目的の十六階に到着した。扉が開く。
扉の先にはスタッフと思しき男が二人立っていたが、こちらに気づくとすぐに脇へ避けた。
「お疲れ様です」
さほど年齢差のない二人組だった、どちらも二十代後半から三十代の男だった。片方は明らかに服装や顔立ちが若く、もう一方も明らかに上司だろう背広姿のややふくよかな男。それぞれから受けた会釈を受けたミランとドミトリも返す。
年下と思しきスタッフの方が666の二人から視線をケヴィンへ移す——そしてすぐに逸らした。思いがけず火傷を負ったような反応だった。
ケヴィンは自分の顔についた隈と左目の傷について思い出したが、特に気遣わなかった。二人のスタッフを乗せたエレベーターは口を閉ざし、沈黙したまま下へ降りていった。
指定された楽屋には正に今飲み物と差し入れが配布されたばかりだった。入れ違いになったスタッフが歓迎と他共演者の到着状況を教えてくれる。
室内の家具や窓の施錠を眺めていたケヴィンの方をドミトリが叩いた。
「罰ゲームに行きましょう」
「思っても言うなよ」ケヴィンは窓の鍵を掛け直した。「アーキテクト、室内には誰も入れるな」
ケヴィンがドアについた磨りガラスにブラインドを下ろす。ミランは眉を少し動かしたが、頷いた。
楽屋のドアは内側から施錠できる。マスターキーは各フロアの責任者が交代で保管している。
放送中、放送予定の番組や映画のポスターが両側の壁に額付きで飾られた廊下は、煌々と光る蛍光灯がもっとクラシックなら映画館のようであったろう。ただしその場合には、所々傷がついたフローリングにはそれを覆い隠す絨毯も必要だ。
「ミラン、が正解でしたね。さっきは」
到着済みの共演者がいる楽屋へ歩く道すがら、ドミトリが言った。
「同姓がいない時点でファーストネームを呼ぶことはない。つくならもっとましな嘘をつくんだな」
「記憶喪失なんて滅多にない機会ですから。これを機に私のこともドミトリと呼んでください」
「お前たちはとことん嘘が下手だな」
「正直者ですから、ミランも私も」
世界平和を体現したような笑顔で話すドミトリにケヴィンが溜息をつく前に目的地に着いた。デザインが統一された小さな磨りガラス付きの白いドアをドミトリがノックする。
中から、はい、と高めの声がした。「666のドミトリ・カデシュです、本日収録でご一緒しますので、ご挨拶をさせて頂けませんか?」
はい、と再び声が返されるが、先ほどうわずった声だった。室内からガタガタと物音がする。人が椅子を立つ音だ。
ドア脇の看板には“M.E.様”と印刷された紙が差し込まれている。
二秒待ってから、ドミトリがドアを開けた。
室内には三人の女性がいた。室内の構成は666のそれと若干異なる。正面右側の壁のドレッサーが一つ多く、四つ並んでいる。そこの椅子の前に長い黒髪の女性と、左右に長さが不揃いのショートカットの女性、奥のソファとテーブルのそばにブラウンの髪を高く一つに束ねた女性がいる。ドミトリがそうであるように彼女たちもまだリハーサル前であるためか、それぞれに私服だったが、揃ってレザー素材を多用したパンクな服装だった。
ケヴィンは室内には入ったが、薄く開けたままのドアの前で止まった。既にドミトリはリーダー役の長髪の女性と握手を交わしている。
「666のお二人と共演できて光栄です」イミーナと名乗ったその女性は聞き取りやすいソプラノで言った。黒髪の内側が鮮やかな真っ青に染められている。「夢が一つ叶いました」
「こちらこそ」ドミトリも平素通りの優しい声だった。「アーキテクトは別件の打ち合わせで挨拶に来られませんが、今日のコラボレーションを楽しみにしていました。皆さんの曲のアレンジを、誰より皆さんに楽しんで貰えれば嬉しいです」
イミーナははにかむようにぎこちなく口元を動かし、そしてやや遠慮がちに視線をドミトリの背後へ向けた。「そちらの方は、クイーンズのマネージャさんでしょうか?」
「ああ、いえ彼は身辺警護です。私たちは若造ですから、セキュリティの観点でまだ考えが甘いところがあるので」
「そんなことは……」
「そんなこと言われたら、666とヒットランクで仲良くしてるのにガードマンの一人もいない私たちって、とんだ安上がりの優等生ってこと?」
口を開いたのは奥のテーブルそばに立っていた女性だった。ヒールの所為もあるだろうが三人の中では最も背が高いが童顔で、厳格そうなイミーナに対し、生まれたての子猫を彷彿とさせる。妖しげなのにどこかあどけない。かすかに体を動かしただけで細い背中の後ろに結い上げた髪の毛先が揺れる。驚くほど長い髪だが、毛先まで完璧な状態だった。
イミーナとその背後に隠れるように立っているもう一人のメンバーが表情を固くしたが、ドミトリは「あはは」と朗らかだ。「今月の振込額も分からない給料で公共料金を支払おうとする人間に、優等生なんていませんよ」
「私たちにもいい加減、イベント以外にも付きっきりのボディガードがいて欲しいって」ポニーテールを揺らして、女性が数歩歩いた。「こういう時やっぱり思うのよね、イミーナ?」
「ミヌエット!」
イミーナが諌めたが、ミヌエットと呼ばれた女性はさらに進み出る。
彼女の足取りは細い棒の上を歩いているようだ。そしてその直線的な棒の先にいるのはドミトリではない。
「ISC……ああ、去年の音楽祭にもいた物々しいオールブラックの人たち」ミヌエットはまだ一メートルほど距離を空けた位置からケヴィンのスーツ姿を見つめた。「そのスーツは防弾仕様の特別性? 光沢が素敵で気になってたの」
「ボス」ケヴィンはミヌエットを見据えたまま言った。「これは仕事か?」
「仕事かどうかはわかりませんが、私も興味があるので是非教えてほしいです」
呑気な様子のドミトリにケヴィンは微かに目を細めた。口の中で舌が煙草を探すが、そんなものは勿論無い。
「通気性、通弾性いずれも優れた特別性です、お嬢さん」
「防弾チョッキは着てる?」
「撃たれる前提の警護計画を提出するなら、トップアーティストの警護は回ってきません」
「プロフェッショナルってことね、最高だわ」
「どうも。ボス、仕事が終わった」
「では我々はこれで」ドミトリは相変わらずにこにことして、目の前の出来事が映画かなにかのように平然としている。「パフォーマンス前に改めてアーキテクトとご挨拶させていただきます」
イミーナがドミトリ以上の大きなおじぎをする。その後ろに隠れていた女性も頭を下げる。ミヌエットも小さく頭を下げたが、それは礼儀というより舞踊前の仕草のようだった。
番組MCの楽屋も訪れたが、こちらは急遽スタッフとの全体確認があるということで、ほとんどすれ違いざまの挨拶になった。別の収録グループの演出に変更があったらしいことだけ、慌ただしい彼らの足音の合間に聞き取れた。
「いやあ、助かりました」
フロアに一箇所はあるリラクゼーションスペースを通り過ぎて、また静かな通路に戻ったところでドミトリが言った。「いつもミヌエットさんに捕まってしまうんですが、今日は最短記録です」
「お前は捕まらないだろ。捕まるとしたら、お前が捕まってやってるだけだ」
「それでよくミランに叱られるんですよね、変な噂が立つって」
「ああ」ケヴィンは首を回した。「あいつが避けそうな相手だな」
「カタギリさんとは正反対の方ですからね、あの方達は。デリカシーがありすぎるというか、ムードがありすぎるというか」
ケヴィンは通ろの壁にかかるポスターを眺めていた。そのうちの一つに、666がこの冬参加する一話完結型のドラマもある。
暗い紫色に落ち窪んだ空を背景に一軒家が黒く聳える丘、その前に不安そうな顔をして座り込む若い男女、地面に膝をついている老紳士、仰向けに倒れる子供、そういったキャストがバラバラに、まるで死体のような不気味さで佇んでいる。
タイトルはわざと歪められた字体で“MONSTER“とあった。Sが左右反転させられている。
「聞いてます?」
「聞いてる。聞いて、六秒待った」
「アンガーマネジメントですか?」
「ああ」
平均的に、怒りの感情は六秒以上持続しない。感情の波は大概この六秒ルールで適応できる。憂鬱や葛藤といった波以外の、沸騰も融解もしない一部の感情を除いて。
ケヴィンはほのぼのとした顔をしている傍の男を見た。
「お前のマネジメント能力をあいつにも分けてやったらどうだ」
「その場合、私はミランから何を貰えるんです?」
「すぐに見返りの話をしないような、あいつの素直さ」
「あはは」
「それと目の焦点かな」
「あは」
通路の角を曲がった。
「それ本気で言ってます?」
角の向こうには誰もいなかった。このフロアにあるスタジオでは既に別グループの撮影中で、しかも何がしかのトラブル中だ。人手はそちらに傾いている。通路を出歩いているスタッフの姿はない。
通路には監視カメラがわかりやすく設置されている。場合によってはこのカメラがバラエティの優秀な撮影スタッフとして、サプライズにかけられる出演者の姿を映すのだろうから、画質は悪くない。
だからこの時のカメラには、ドミトリの目に突然発生した焦点が映っていたことだろう。
「本気」
ケヴィンは歩きながら言った。そもそもどちらも足を止めていない。
間も無く割り当ての楽屋の前だ。
「私が馬鹿な子供みたいによく考えもせず喋るのは、あなたとミランぐらいですよ」
「そこは嘘でもあなただけと言うところじゃないか?」
「だから言ったでしょう、今のわたしは馬鹿な子供です」ドミトリは楽屋のドアノブに手をかけた。まだ回さない。「子供は嘘をつきません」
「そもそも子供は『はい、僕は馬鹿正直でちんちくりんのガキです』なんて言わないだろ」
「ませたガキですねえ」
ドミトリが笑った。綿毛が春風に吹かれて転がるように。「そうだな」ケヴィンはそろそろ口寂しさが耐えきれなくなっていた。今すぐにそれが満たせないなら、いつ満たせるかの約束が欲しかった。
二人はドアの前にいたが、話し声はそう大きくなかった。
そしてドアにあるガラスにはブラインドが下げられたままだ。
ドアノブは微かにぬるくなっていた。ドミトリの指の間から直接その金属に触れたケヴィンの指先にもその温度が伝わる。ドアノブに触れていない部分は、ほとんど同じ体温だ。
体温にしてはやや低い。
「ませたガキなら、こういう時に恋人の週末の予定ぐらい聞いておくものじゃないか?」
ドミトリの目がケヴィンの目を見据えた。視線が重なったのを確かに感じる目の動きがあった。暗すぎる黒目は、ごく近くで目を凝らせば瞳孔を見分けることができる。
「今度は店内でゆっくり食べないか」
ケヴィンは口端の片方を上げた。目の隈と傷が、その笑い方を卑屈そうに見せたが、ドミトリはただきょとんと——そういうふうに見える顔つきをしている。
「アップルパイと、コーヒーを一緒に飲もう。今度は砂糖は要らない、あの日ほど疲れちゃいない——あの日よりもっと楽しい話ができる」
今、ドミトリの視線は釘のようだった。ケヴィンは同じ目をする人間を知っていた。キルヒャーだ。彼女の目とドミトリのこの目は似ている。
物事の優先順位が既に確定しきった人間にしかできない目だ。自分の判断と感性に絶対の自信がある人間にしか出来ない目だ。直視すると目の奥が鈍痛を訴えてくる。それなのに逸らそうとすればいよいよ痛む。
「信じられないか? 俺の言ってることが」
ケヴィンは上げていなかった方の口端も引き上げた。
「信じられない」ドミトリは仄明るい声で言った。「あなたからデートに誘われるなんて」
「日程は合わせる。現地集合で構わない、先に店内で待つ。俺が待ち合わせ場所を間違えたらそれまでだ」
そこまで言うと、ケヴィンはドミトリの手ごとドアノブを握り込んで回した。楽屋の中から光がさす。通路の天井と全く同じ蛍光灯の光がやけに眩しい。
「おかえり」と、室内の椅子に座って資料を読んでいたミランが顔を上げる。「早かったな」
「ああ」
ドミトリがそれに答えた。一瞬の隙も変化もない、いつも通りの声で。
「お嬢様方をカタギリさんが上手くもてなしてくださったからね」
その言葉で、ミランの視線がドミトリからケヴィンが移る。白い目が睨む。
ケヴィンは横目でドミトリを睨む。
ドミトリは笑っていた。いつも通りに。
完璧だ、とケヴィンは思った。自分にもこれが出来たら良いのだが、とも。
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