第10話 最後の賭け(2)
新たなキーワードだ。あるいは、新たな子供の嘘か。
「賭け?」
「あの日は」ミランは視線を壁にやった。何も飾られていない壁へ。「あなたはフロスト区へ行くと言った。俺は行くなと言った。あなたはあの頃やつれていたが、あの日は嘘のように穏やかだったからだ。俺にはそれがひどく不気味だった。でもあなたは何をどう言っても聞かなかった。俺が食い下がって、ようやくあなたは賭けをしようと言った」
ケヴィンは黙っていた。ミランの言葉が即興の作り話かどうかはまだ判断できなかった。
「もし自分に何かあったら、そんなことは万が一にもないから、俺と付き合う。そしてもし何もなく帰ってきたら、その時は今後一切口を出すな。そしてあなたは事故に遭った」
「証拠は?」
「俺に電話をかけている。事故当日の」ミランは自分の携帯を取り出した。黒い、どこにでも売っていそうな衝撃吸収剤のケースをつけている。「午後八時三十八分」
ケヴィンの携帯にはそんな発信履歴は無かった。だがその疑問にはミランが答えた。「公衆電話から掛かってきたからそっちの履歴は無いはずだ、あなたは用心深い」
ミランは携帯をテーブルへ置いた。画面にはビデオフォルダが表示され、そこには一つだけデータがある。画面収録のデータらしく、二十六秒間の携帯の画面と、その間にマイクから発された音声が録音されている。
ミランは何も言わなかったが、明らかに再生を促していた。
ケヴィンはゆっくりと椅子から背中を浮かせた。固い布を張っただけの背もたれから解放された背骨が喜んでいる。
携帯の画面に触れる。それだけで再生が開始された。
三角形の再生マークが二重線の停止マークに切り替わる。
まず聞こえたのは、深い溜息だった。
古い公衆電話なのだろう——今では公衆電話自体、もう街角から随分姿を消した——サラサラと砂が落ちるようなノイズ。
『ミラン?』
それは間違いなくケヴィンの声だった。
『今……終わった』
ひどく疲れた声だった。随分長い距離をただずっと、黙り込んで歩き通した後のような草臥れた声だった。
『これから、帰る……これで、賭けは……俺の勝ちだな』
『お前はもう……だから、気にするな』
ピー、と短い機械音が鳴った。小銭が落ちる音がした。
『……明日、ちゃんと話そう……お前の、妄想癖がどれだけ……ひどかったか……』
『じゃあな、これを聞いたら……さっさと寝ろ』
『おやすみ』
再生が終わった。
スタジオは数秒、水を打ったように静まり返った。
ケヴィンもミランも黙っていた。ミランは視線をケヴィンに戻し、反応を一つも見逃すまいとするようにじっと見つめていた。
その目にはケヴィンが失った記憶を思い出すのを切望する色があった。ちゃんと話そうと過去の約束を交わしたケヴィンの責任を、今のケヴィンが果たしてくれることを期待していた。
だが——ケヴィンにはやはり何も響かなかった。
「お前の声が入っていない」ケヴィンが言ったのはそれだった。「留守番電話か、これは」
「そうだ」
ケヴィンは眉を顰めた。昨日、ケヴィンが送ったチャットメッセージには即座に既読表示がついたことを思い出しながら。
「俺がフロスト区へ行くのをそんなに渋ったお前が、俺からの連絡に出られなかったのか」
「忌々しいことに、クイーンズレコードから急な呼び出しがあった」
声は平坦だったが、ミランは表情を取り繕わなかった。「同じ所属会社のユニットがスキャンダルをやらかして、急遽その日のラジオ番組に出てくれというものだった。俺たちしか空いてなかった。レコードが迎えを寄越して、俺は行くしかなかった」
裏を取ろうと思えばすぐに取れる話だ。これが作り話なら馬鹿の思いつきだが、ミランは馬鹿ではない。ケヴィンはテーブルに左肘をついて額に手を当てた。
丁度中指が左瞼の傷痕をなぞる。
「賭けがあったことは確かめられたが、賭けの内容までは保証できていないな」
ミランの視線が動くのを肌で感じ、ケヴィンは頬杖をついていた手を振った。「だが、お前が嘘の為にまた嘘をつくとは考えづらい。昨日のお前の態度に通じるものもあった」
ケヴィンは目を伏せた。今はまだミランの目と向き合いたくなかった。
数秒でいい。暗がりでしか考えられないことがあった。
「俺は何の目的でフロスト区へ行くか伝えていたか?」
「聞いていない。だが、どうせウィンター——氏にでも会うつもりだったんだろう」
「何故そう思う? 俺の担当だったからというだけでは固執出来ないだろ」
「そのウィンターと」
そこまで言うと、ミランは出かかった言葉を堰き止めるように歯を噛んだ。白く綺麗で、隙間のない歯並びだった。ぼんやりとケヴィンはそう思った。
「ウィンター氏とあなたが以前会っているのを見たことがある、とだけ言っておく。細かいディティールは聞かないでくれ、言いたくもないし、思い出したくもない」
「仕事に支障が出るようなら聞かないさ」
「たいへん親しげな様子だった、顔を顰めたくなるほどには」
「聞いてないからな、俺は」
ミランがペリエを飲んだ。まだ炭酸が抜けていないだろうに結構な量を一気に飲む。それでいて咽せることもなく飲み干すのだ。
「で、どうする?」
「何が」ミランはもう一口ペリエを飲むか迷っているようだ。
「恋人同士なんだろ? 俺たちは」
パキ、と乾いた音がした。
「キスでもしておくか? コーヒーと煙草の後で良いなら」
「……結構だ」
「だろうな」
「勘違いしないでくれ。時間がないんだ」
ミランがペリエの残りを飲み干した。そして空になったボトルの底で壁の時計を指す。
十七時四十五分。そろそろ動き出さなければならない。だがどう考えても一分は余裕がある。
「お前」ケヴィンが片方の眉を歪めた。「もしかしてムードから作らないと気が済まないタイプか?」
だが、ミランは首を横に振った。そして感情の読めない白い目をケヴィンへ向けた。
「五、」首を振る。「十分は欲しい」
「やっぱり、無いな。お前とだけは」
「ドミトリを起こしてきてくれ。本当に寝てるなら起こすのに時間がかかる」
「了解、ボス」
背中に突き刺さる氷のような視線を手で払い落とし、ケヴィンはスタジオを出た。
ドミトリは一階にある空室の一つにいた。そこは楽屋のように一段高いフロアが部屋の半分を占めており、そこに簡単なハンガーラックやドレッサー、テーブルとソファベッドがある。ドミトリは背もたれを倒して出来たベッドに、スタジオを後にしたままの格好で横向きに寝ていた。両耳にはイヤホンが差し込んである。
「ボス」と、ケヴィンは呼びかけた。「ボス二号、パパ? ママが起きろと言ってる」
ドミトリはピクリともしない。健やかな寝息は礼儀正しい子供のようだ。大きなオムライスでトランポリンでもする夢を見ているのかもしれない。
だが今はそのオムライスの頂上にあるオムレツを破き、チキンライスをぶちまけなければならない。ケヴィンはドミトリの耳に付けられたままのイヤホンを抜いた。
途端、ブウン、という巨大な虫の羽音に似た音が漏れる。
ギョッとしてイヤホンを自分の耳に当てると、続け様にガシャガシャと瓦礫が崩れるような音が続く。
「むぐ」
それはドミトリの口から漏れた声だった。有線イヤホンが張り詰めて、下にしている耳にもう片方が引っかかったらしい。
ケヴィンはイヤホンが接続された携帯を拾い上げた(それはドミトリの腹のそばに転がっていた)。携帯は有名な動画投稿サイトのページを開いている。動画を再生中に眠ったらしい。
再生中の曲名、この場合は動画名が横長の画面に流れていく——エンダー廃棄工場、その作業音。
ギギイイ! と鋼鉄を切断する重々しいチェーンソーの回転音がイヤホンから聞こえてくる。
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