第9話 最後の賭け(1)

 天使とは呼んで字の如く、天の使いであり、大まかにそれは神の使いである。

 即ち天使の怒りとは、おおよそ神の怒りとも言える。

 そんなことを考えたのは、666の二人が借りているスタジオの入り口に約束の十八時より一時間も早く到着したケヴィンを出迎えたミランの目が今にも人を殺しそうなものだったからだ。

 とっくに日の落ちた通りへ、ミランの背後から漏れる白色光が後光のようだ。

「此処って禁煙か?」

 ケヴィンは煙草を咥えていた。昼前に目覚めてイゼットの家を出発し、オータム区のコテージで三時間ほどこれまでの警備情報など見直してから自分の車でやってきた。自宅に戻ってからは常に口に煙草を咥えていた。

 ジャケットは脱いでいる。それ以外は仕事着のシャツとネクタイ、スラックスに革靴だ。

 ミランが顔を顰めるとすれば煙草以外に理由がない。

 だがミランは質問には答えず、ケヴィンを建物の中へ通すと入り口を封鎖してさっさと階段で地下へ降りていった。挨拶も何もない。

 熱湯やマグマの沸騰というより、液体窒素の沸騰に近い態度だった。

 縦に細長い小規模なビルは、地下にスタジオがあり、今そこは666の二人が借り上げていた。地上階には空きテナントもあるが、人が全くいないあたりこちらも抑えているのだろう。

 地下への階段を降りていくと、突き当たりの黒いドアから入れ違いにドミトリが出てきた。黒い髪の毛先を束ねて、ラフな厚手のシャツにジーンズという格好でケヴィンを見上げる。

 目があった——おそらく——途端、ドミトリは明らかに困り顔をした。

「カタギリさん」

「なんだ」

「どうしてあなたって人は、ミランの逆鱗にしか触れないんでしょうね」表情とは裏腹にドミトリは愉快そうだった。

「俺はママの言いつけを守ったぞ」

「ママ?」

「友達と遊ぶときは逐一連絡しなさいって、ママが言ったんだよ」

 ケヴィンが顎でドアの先を指す。スタジオへのドアは中央に縦に長くガラス張りになっており、室内が見えた。ミランは広いスタジオに無造作に置かれた組み立てに椅子に座り、こちらへ背を向けている。安そうなキャンプ用のテーブルをデスク代わりに紙を広げているが、ペンを握った手は動いていない。

「ああ、そういう」ドミトリもおおよそ把握したのか「でも、ママって」

「飯は食べたか?」

「これから何か頼もうと思っていました」

 ドミトリの視線はケヴィンの右手に提げられた紙袋を見つけていた。その紙袋に焼き付けられたマークがベーカリーのものであることも。「手間が省けました、おいくらですか」

「金は要らん。代わりにママの機嫌をとってくれ」

「俺は金で解決できる問題の方が好きなんですけどね」

 ぼやくようなパパの呟きを聞かなかったことにしてケヴィンはドアをノックし、そのままスタジオへ入った。煙草は携帯灰皿で始末して。

 ミランは振り返りもせずテーブルに向かったままだった。ペンを握り直したらしいが、やはり碌に動いていない。「一時間後に出るぞ。食事を取れ」そう言ってテーブルの端に紙袋を置く。スタジオ内には他にもくつろげるような長椅子と物が置けるようなラック、スツールがあったが、テーブルといえばこれだけだった。

 壁際と、ミランのそばに似たようなデザインのエレキギターが二本立てかけられている。電子ピアノ、エレクトーンもそれぞれ一台ずつ。アンプは長椅子のそばに一台。

 奥には小さめの個室がもう一つある。スタジオもそうだが複雑な積み木がされたような防音性の壁で、あちらは録音と編集設備がメインなのか、室内がほぼ機材で埋まっている。

 覗き込んで初めて、ケヴィンの予想よりミランの表情がさほど険しくないことに気づいた。そしてテーブルに広がっている紙にはどれもデフォルトで五線譜が印刷されている。ただしそこにあるべき音符はまだ一節もない。

「……じろじろ見ないでくれないか、集中できない」

「腹が減ってるからだ、飯を食ってからにしろ」

「今、丁度書き始めたところなんだ」

「そうか、それはよかった。まだエンジンはかかりきってないな、ガソリンを浪費することなくブレーキが踏める。環境問題はこれで一つ解決だ、素晴らしい。ところでハムチーズとフィッシュのお好みはどちらかな」

「ビーフ」

 チッ、とケヴィンが舌打ちをした。ローストビーフとブラックペッパーのサンドは自分自身が食べるつもりだったからだ。だが顧客の要望とあれば跪いて従う他ない。

「俺はフィッシュで」

 にこやかに長椅子の方に腰掛けたドミトリが言った。絶妙な距離で安全圏にいる。そしてサンドイッチが放り投げられても回転しないギリギリの距離でもあった(元よりペーパーで包まれているが、中々心もとない)。

 

「ミラン、カタギリさんのママになったんだって?」

 ドミトリがサンドイッチの包装紙を留めるセロハンを指で引っ掻きながら言った。「あんまり門限を厳しくしちゃいけないよ、カタギリさんも年頃だからね」

「二十八歳で酔っ払って目を怪我する、轢き逃げに遭う。これが年頃?」

「星座占いが悪かったんじゃないかな」

「カタギリは山羊座だ、去年末のテレビで占い師は山羊座の今年の運気は二位だと言った」

「それ、誰が言ったの?」

「ミセス・カトラ」

「うーん」ドミトリはまだセロハンテープと格闘している。「あの人も占いすぎて疲れているんじゃないかな、年間六百人以上占ってるんだろ? 俺だったら頭が回っちゃうな」

 ケヴィンは立ったまま黙々と自分のサンドを食べていたが、ついに見かねて食べかけのそれをテーブルへ置いた。そして微笑みながらセロハンテープと戯れているドミトリの手からフィッシュサンドを取り上げると、セロハンテープがついている部分ごと破く。そして包装紙の端を適当に畳んで手が汚れないようにセッティングするなり、それを突き返した。

 溜め息をつきながらテーブルへ戻ると、ケヴィンはテーブルの脚に隠れるようにしてそこにもう一つ組み立て椅子があることに気づいた。

 その椅子もキャンプ用具のような組み立て式だ。モスグリーンの布をパイプに張っただけのものだが、座り心地を捨てただけに利便性は高い。

「借りるぞ」そう言ってその椅子を広げて座る。

 そうして椅子に座り、視線を上げれば当然正面のミランと向かいあうことになる。

 ミランの表情が険しくなっていた。まだ口をつけていないサンドを手に、剣呑な目つきでケヴィンを見ている。固く焼かれた甘味のないパンはローストビーフの肉汁とレモンソースを吸っても形と味が崩れない。わざわざケヴィンが店員に聞いてカスタマイズしたものだった。

「なんだ」

「別に」

「モーニングコールもしただろ、時間外労働はしない主義なんだがな」

「あなたの朝は正午まであるのか、斬新な解釈だな」

「解散したのがあの時間だったからな」

「楽しんだようで何よりだ」

「いや。酒飲んで吐いてきた」

 ローストビーフに齧り付いたばかりのミランが眉を浮かべた。そのまま咀嚼もせずケヴィンの顔を見る。

「病院食で甘やかされて胃がまだ気取ってる。フロスト区のボート小屋には行くな。次に大雨が降ってから行け、俺の胃液シェイクが混じってる」

 それでもなおミランがサンドを齧ったまま停止しているので、ケヴィンはテーブルに肘をついて顔を乗り出した。そして教えるように目の前でサンドを齧る。咀嚼して飲み込む。

 見開いたミランの目は驚くほど大きかった。いつもは切長に伏している上瞼が押し上げられ、目尻が上がり気味になるからだ。

「俺、少し上で仮眠取って来ますね」

 ドミトリが不意にそんなことを言ってソファを立った。あの何処を見ているのか分からない優しげな目で、小さく丸められた包装を握ったまま手を振る。そして碌に返事も相槌を受ける前にスタジオを出て行った。

「おい、パパが逃げたぞ」

「ドミトリはいつもああだ」

「仲良きことは美しき哉」

「カタギリ」

「今度はなんだ」

「半分食べるか?」

 今度はケヴィンが眉を浮かべた。サンドの味が口に合わなかったわけでないことは、ミランの一口目の存外大きな歯形からして明らかだ。事実今も、ミランはサンドを半分まで食べ進めている。

 ケヴィンの手にあるハムチーズサンドは既にあと一口というところだった。交換するには気が引けるほど小さくなっている。

「昼に少し食べ過ぎたから、交換してくれ」

 ミランがそう言い、きっかり半分まで食べたビーフサンドを差し出してくる。ケヴィンは残り一口になった自分のサンドを交換した。

 案の定ミランは受け取ったサンドを、もうハムの切れ端をパンで挟んだだけのそれを一口で全て口の中へ収めた。頬がいきいきと蠢いている。

「お前の機嫌が良くなるスイッチが分からないな、そんなに面白かったか、吐瀉物の話が?」

「割と」

 ミランは椅子の足元に置いていたバックから緑色のペットボトルを取り出し、蓋を開けた。途端に空気音がなり、中の透明な液体が泡立つ。ペリエのようだ。ケヴィンも紙袋の底に詰めていたコーヒーを取り出して飲んだ。

 

「少し弾いてもいいか」唐突にミランが席を立った。「そんなに煩くしない」

 質問形の言葉だったが、ミランは答えを聞くより前にスタジオの壁に立ててあったエレキギターを手に取った。そのそばに車輪付きのワゴンに乗せてあるアンプも連れ帰ってくる。

 元よりケヴィンに異論は無かった。顧客の振る舞いは基本的に自由だ。顧客の安全を脅かすものには対処する必要があるが、それ以外に気を払う必要はない。それは顧客がISCの派遣員に対してもそうだ。

 けれどもミランは椅子に座り直し、ギターをアンプに繋いても弦に触ろうとしない。

「どうぞお好きに」

 と、ケヴィンがコーヒーカップ片手に告げてようやく、ミランは膝に乗せたギターの弦を指で弾いた。スモーキーな低音が空気を削るように響く。一つ一つの音にざらついた反響が後を引く。

 大筋の譜面はミランの頭の中にあるようだった。ケヴィンは流れていく音が、テーブルに無造作に重なったほとんど白紙の楽譜のうち、一番下に敷かれているそれをなぞっているのだとわかった。出だしの特徴的な連続する音階とスタッカートが一致する。

 手に持ったままのサンドを齧ることはしなかった。どれだけ気をつけても包装紙が雑音を立てる恐れがあったからだ。同じように、譜面を手に取ることもしなかった。紙の摩擦音は雑音でしかない。

 できるのはコーヒーカップを傾け、静かにコーヒーを飲むことだけだ。

 ミランはギターソロの部分を何度か繰り返した。時々口が動いたが、全ての言葉はミランの頭の中でしか響かないらしい。

 繰り返すベースの音の連なりは変わらないままに、徐々にそれが複雑になってくる。弦の震えや、音の伸び、短く切られたわずかな空白に捩じ込まれるわざと外れた不協和音。

 シンプルに完成している絵に細かく描き込んでいくような音の繰り返しはそれから十分ほど続いた。

「うん」

 ある時、ミランが言った。「もう一つ低い音が欲しいな」

「ベース?」

「それは絶対に必要になる。でももっと別の効果音が欲しい、重機のエンジン音あたりがいいかもしれない」

「パパを呼んでくるか?」

「いや。多分ドミトリもその辺りは考えてるだろう、その方向で歌詞をつける」

 ミランの口調にはなんの迷いもなかった。まだ顔も名前も晒して毎朝天気を予言する気象予報士の方が疑われるだろう。

「だから今はそばに座っていてくれ」

「仰せのままに、お客様」

 白い目がケヴィンを一瞥する。が、視線はすぐに手元のギターへ戻る。「俺とあなたは恋人だと言ったはずだ」

「公私混同するタイプか? ことごとく好みじゃないな」

「まだ十八時じゃない」ミランは右手でスタジオの壁にかかる時計を指した。十七時半。「他でもないあなたが決めた待ち合わせ時刻の前だ、なら今は明らかに勤務時間外だろう」

「可愛げのねえガキ」

「どうも。あなたも可愛げはないよ、俺たちはお似合いだ」

 演奏が止んだのでケヴィンはサンドをまた頬張った。この一口を含めてあと三口で食べ終わるだろう。それが惜しいほどに完璧なカスタマイズだ。

 十七時三十五分。十八時には此処を出発する。十分前には上階のドミトリと合流し、表の人通りを確認し、裏の駐車場から車を適当な位置へ引っ張ってくる必要がある。

「俺とお前は恋人じゃない」

 いくつか考えた前置きはどれも無駄な時間を生むだけのものだった。そのためケヴィンは本題から話した。「そろそろ正しく言葉を使え、今夜はテレビ収録だろ」

「記憶が無いわりに断言するんだな」

「午後にコテージの中を掃除したが、お前と俺の交際を裏付けるものは何も無かった」ケヴィンはサンドの包装紙を片手で握り潰し、丸めた。「携帯に着信履歴もメールも特別なものはない。削除済みのデータも復元したが、何も無い。仮に俺とお前が交際していたならどう長く見ても一年足らずだ、こんな冷め切った夫婦みたいな関係になるには早過ぎないか?」

 ボール状になった包装紙をケヴィンが放る。前触れもないキャッチボールだったが、ミランはそれを受け止めた。左手で。

「もっと別の関係だったら?」

「セックスフレンドか?」ケヴィンは右手を軽く上げた。グローブのように。そこへボールが戻ってくる。「それも無いな。私物の中にローションはおろかスキンもなかった。俺は随分不健康な生活を送っていたらしい、やつれるわけだ」

「俺が持って行ったのかもしれない」

「かもしれない、なんて言ってる時点でお前の負けだ。これ以上俺に無駄話をさせるな、時間外労働中の俺はお前の下僕じゃない」

 ミランとケヴィンは会話しながらずっとキャッチボールをしていた。お互いに優れた投手で捕手だった。恋人ではなくバッテリーなら信憑性はあっただろう、とケヴィンはそんなことを考えた。考えて、ボールを今度こそ握り潰す。

「何故そんなちゃちな嘘をつく」

「それが嘘じゃないからだ」

「いい加減にしろ」

「賭けをした」

 圧縮された包装紙はまるで折られた薔薇の棘のように奇妙な形をしていた。ケヴィンはそれをテーブルに置いた。

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