第8話 三人目の恋人

 店を出た。幸い追いかけてくるような者も、興味深そうに視線で縋ってくる客もいなかった。

 ケヴィンは手短に行動履歴をチャットアプリで報告した。自分の恋人を一番に名乗った感情豊かな男に。

 送信後、すぐに既読表示が浮き上がる。思わず顔を顰めて、携帯を上着のポケットへ押し込む。

 外は既に真っ暗だった。もう二十一時を過ぎている。通りにはちらほらと人影が見えたが、誰もが遠い。濃いオレンジ色の外灯とその逆光の黒以外の色は全て塗りつぶされている。

「その顔だと、気の早い他の誰かがもう君に告白した後のようだね」

 イゼットがのんびりとそう言った。背中には黒い革のケースに仕舞われたチェロがある。暗い色のロングコートの襟から結われていない金髪があふれている。

 隣のボート屋の食堂は大盛況だった。何かの打ち上げをしているらしい。その店の脇から池を迂回するような桟橋の道がある。そこを二人で縦に並んで歩いた。前を歩くイゼットの背負ったチェロケースのベルトに髪が絡んでは解ける。

「666の二人だね? アーキテクト君のほうかな、それともカデシュ君だろうか」

 その両方だ、とケヴィンはわざわざ言わなかった。

「あの二人と親しいのか。同じレコード会社でも系統が違うだろ」

「それなりに会う機会はあるさ。春夏の音楽祭はほとんどクイーンズのアーティストで組まれるしね」

「ああ」その時期はまだ記憶にある。ケヴィンは微かに歩幅を広げた。ぎりぎり当時のことは覚えている。「去年春の音楽祭がお前との最後の仕事だったな」

「あの時の君はもう僕じゃなく会場の警備員だったけどね……」

 イゼットが顔だけ振り返り、そして足を止めた。想像よりずっと近くにケヴィンがいたからだろう。

「髪」

 ケヴィンはイゼットの襟元から溢れて背中へ垂れた長い髪をすくった。歩くたびチェロケースのベルトに絡まっては解けていたそれ。摩擦や引っかかりとは無縁の手触りだが、目の前に揺らされていると気が散る。

「相変わらず掴みづらい髪だな」

「素直に綺麗な髪だって言えよ」

 コートの襟内へ束ねた髪が仕舞われる間、イゼットはおとなしくしていた。縛ってもすぐ解けてしまう細い髪は纏めようとすれば編むしかない。

「君は相変わらず、最悪な触り心地の髪だね」

 イゼットは首の左側へ綺麗に流された自分の髪を一瞥し、目の前にいるケヴィンの前髪を指で触った。色が抜けてくすんだ金髪は癖もなく、だがあまりに硬い。毛先は凍った芝のように指に刺さる。その懐かしい感触が愉快なのか、イゼットはしばらく前髪を弄っていた。

「偶には手入れをしなよ。折角なら今日は僕の家に泊まるかい、良いトリートメントがあるんだ」

「結構だ。お前、結婚しているんだからいい加減に弁えろ」

「ん?」イゼットは目を瞬かせた。「ああ、そうかここ一年の記憶が無いのか」

 怪訝そうに眉を顰めたケヴィンに、イゼットは指を鳴らした。そして満面の笑みで溌剌と告げる。

「僕、もう離婚したんだよ。寂しい独身に逆戻りさ」

「——離婚?」

「離婚協定で色々と決めることが多くてね、成立したのは今年の春だけど」

 去年の暮れの時点で決まっていたことだ、とそう話すイゼットの口調は気安いものだった。学生時代思いつきでたった一枚買った宝くじが外れていた時の方が、あの時の方がよほど深刻そうな口ぶりだった。

「結婚式にまで来てもらったのに、申し訳ないね。というのも、僕からすればとっくに謝ったことではあるんだが」

 美貌のチェリストであるイゼット・ウィンターとオペラ界の歌姫と呼ばれていたアリエル・タゴンの結婚式は近親者と親しい友人たちのみで執り行われたが、当然のように新郎と新婦の姿はメディアに大きく報じられた。

 結婚式のことをケヴィンは覚えている。出席者のほとんどは新婦側の知人であり、さらに言えば全員がクイーンズ・レコードの関係者だった。ケヴィンは友人半分、仕事半分での出席だった。当時はまだイゼットとの契約中であった。

 華美さのない純白のタキシードに身を包んだイゼットは同性から見てもあまりに美しかった。同じ純白のドレスに飾られた歌姫がそうであるように。それ以上に。

 そういう意味では、あの頃から時限爆弾のスイッチは入っていたのだろう。

 しかしそれが爆発するのは、少なくとも五年か、もっと言えば十年は先だと思っていた。それだけすればもっと刺激的でセンセーショナルな事件が世間を騒がせ、爆弾の起爆になど誰も見向きもしないはずだった。

 少なくともケヴィン・カタギリの知るイゼット・ウィンターなら、時間のやり過ごし方などいくらでもあったはずだった。いたずらに爆弾をつついて誤爆させるなど有り得ない。

 それなのに、わずか二年にも満たない夫婦生活の為に、それを終わらせる為に、イゼットは音楽家人生を棒に振ったということになる。

「大スポンサーのお嬢さんを弄んで捨てた訳だからね」

 イゼットは相変わらず些末ごとのように言う。穏やかな冗談のように。

「レコードの所属からは消されたし、予定していたツアーもコンサートも全て下ろされた。それで今は気ままなチェロ弾きをしている」

 イゼットが身を翻し、再び歩き出す。三歩遅れて、ケヴィンも歩き出した。

 

 桟橋が軋む音だけが聞こえた。そばの池には生き物もいないのだろう、さざなみひとつ立たない。苔が蒸して黴がついた桟橋は時々、軋む代わりに足裏に柔らかな感触を返した。

 不意にケヴィンは水の匂いを強く感じた。不快な、腐りはじめた水の匂い。

 掃除を怠った排水溝から、連日降り続いた道路の側溝からこみ上げてくる匂い。

 うっすらと甘く生臭い、ひどく不快な匂い。

 皮膚に張り付くあの匂い。

「ケヴィン!」

 鋭いイゼットの叫び声が上がるのとケヴィンがその場に膝をつくのは同時だった。数歩の距離を駆け戻ろうとするイゼットが目の前へ来る前に、ケヴィンが池の方へ顔を背ける。

 しかし、両手をついた桟橋の表面に蒸した苔の湿り気を手のひらに感じた瞬間、我慢が切れた。

 池の水面に波紋が立った。バシャバシャと水面が沸き立ち、ケヴィンが口から液体とも固体ともつかない胃液のペーストを吐き出すたび、まるで餌を撒かれた魚がそこにいるように飛沫がたった。泡が立った。

 吐瀉物はすぐに胃液だけになった。それでもしばらく吐き続けた。薄めるところのない胃液が逆流して喉がひりつく。

 ケヴィンは抗えずただ池に向かって吐き続けながら、頭の片隅では冷静さを残していた。自分の右隣へしゃがみ込んだイゼットの存在や、その手が自分の背中をさする調子を感じていた。ちょうど四拍子の調子だと、そんなことを考えていた。

 あらかた胃の中身をひっ繰り返したところで、ふと遠くで賑やかな人の声が聞こえた。

 イゼットが舌打ちをする。どうやらボート屋の一階で打ち上げをしていた数名が酔い覚ましの散歩にこちらの方へ出てきたようだった。

「ケヴィン、立てるかい」

「いい、お前だけ行け」ケヴィンは乱暴に唾を吐き、口元を拭った。「ここで解散だ」

「つれないことを言わないでくれよ」

 背負っていたチェロのケースを片方の肩へ寄せ、空いた方の左肩をイゼットはケヴィンへ押しつけた。肩で持ち上げられるように立たされ、そうなるともうケヴィンは腰に巻き付いたイゼットの腕に引き摺られるがまま歩くしかない。

「揺らすな、気持ち悪い……」

「吐きたきゃ好きなだけ吐けばいいさ、ちょうど真横に自然の流し台がある」

 優しげな顔つきと繊細な手つきで誰もが忘れがちだが、イゼットも身長はほとんどケヴィンと変わらない。体重について言えば五キロ以上の差があったが、それはこの時問題にはならない。

「さあ、もうすぐ僕の車に着くけど、吐き忘れはない?」

「××××」

「車で吐いたら流石にクリーニング代は請求するぜ」

 池の周りをぐるりと歩いて、待ち合わせのバーの真後ろの通りに出る。するとそこには小規模な駐車場があり、いくつか駐車している中にひときわ目立つビビットブルーのジープが停まっている。

 イゼットはケヴィンを後部座席に押し入れると、次いでチェロの入ったケースを押し込めた。

「おい、商売道具を雑に扱うな……」

 ケヴィンの呻き混じりの声は、後部座席のドアを閉じる音で聞こえなかったらしい。すぐに運転席のドアが開き、イゼットが颯爽と乗り込む。シートベルトをつけてエンジンを入れる。ライトを点灯させれば、バーの裏手にある銀のドアが黒い外壁の中で眩しく光を跳ね返す。

 イゼットが助手席のリクライニングへ腕をもたせ、後方を眺めながら道路へ車をバックさせた。ついでのように後部座席へ仰向けになったケヴィンを見て、にっこりと笑う。

 ところで、フロスト区の法定速度は時速八〇キロに改められたらしい。信号も曲がり角も少ないせいで殆ど減速することなくジープは夜道を疾走した。

 そしてものの数分で、車の窓からはまるでファンタジックなテーマパークから切り取ってきたような白く洗練された住宅が、窓から暖かなダウンライトを溢れさせながら家主と友人を歓迎しているのである(人もいないのに電気をつけているのは防犯の為だとイゼットは言った)。

 その頃には幾分か落ち着きを取り戻していたため、ケヴィンは車のエンジンが切れなり身を起こし、腹の上に乗っていた楽器ケースを持って自分で外へ出た。

 

 イゼットは既に自宅の玄関へ鍵を差し込むところだった。施錠が解かれると、振り向きざま、シャッターを上げていた車庫へ車のキーと連結した小型のリモコンを向ける。

 シャッターが自動的に降りていき、この家への入り口となる門が閉ざされる。

 静かな夜の庭には無造作に停められた青い車体と薔薇がしぶとく咲く花壇、そしてよくわからない彫刻があるばかりだ。

「まるでシンデレラ城だな」

「それ、僕が結婚したばかりの時も言ってたよ、ケヴィン」

「そうだったか」

「出来の悪いシンデレラ城のミニチュアみたいだって、すごく嫌そうな顔して言っていたじゃないか。二年前のことだから、これも記憶喪失かな、それともただ物覚えが悪くなっただけ?」

「俺の背中に鈍器があるってことを思い出してから、もう一度言ってみろ」

 イゼットが声を出して笑いながら玄関を押し開ける。

 どこもかしこも白い。壁も床も天井も。あの結婚式で見た純白の花婿と花嫁が、あのタキシードとドレスのまま暮らすための家だ。

 二階建ての邸宅はフロスト区の環境柄か、玄関すぐに雪落としができるような広い吹き抜けのエントランスがあった。そして進む先に三段ばかりの降る階段があり、大理石の広いフロアがリビングと客間だ。当然のようにグランドピアノが置かれている。

 リビングのさらに奥の壁にまとわりつくように螺旋階段があり、吹き抜けからも見上げることのできる繊細なシャンデリアは、誰より二階に部屋を持つ夫婦たちの目を癒すはずだった。

 エントランスの壁には大きな絵画が一枚かけてあった。透き通った朝焼けの海、その岩辺に美しい女性が裸で腰掛けている。体にまとわりついた長い髪や水滴がそれぞれ薄いヴェールのように彼女にドレスを着せているために、裸体だということを感じさせない。或いは淑やかに投げ出した両足の輪郭がわざと曖昧にされているせいで、人魚のように見えるからか。しかしどうでも良いことだった。

「君がこの家に来るのは久しぶりだね」

「だろうな」

「好きなところに座って。おすすめはピアノの前の椅子」」

 ケヴィンは背負っていたケースをグランドピアノの奥へ、壁に立てかけるようにした。この家のステージの方があのバーよりよほど高級だろう。それでもイゼットがこの輝かしい大理石のステージで楽器を弾いたことはきっと無い。

 ケヴィンはリビングにあるソファに腰掛け、そのままもう一度仰向けになった。

 それから、定時報告のことを思い出した。バーに入る時、出た時点でそれぞれ一度連絡を入れているが、まだ解散報告をしていない。じっさい解散をしていないのだから連絡しなくともいいと言えばそれまでだが。

 イゼットの家にいると連絡することと、何も連絡しないのとでは、どちらがミラン・アーキテクトを刺激しないだろう。

「ケヴィン」

 ポケットから取り出した携帯を、ソファの背もたれを乗り越えて顔を見せたイゼットが攫った。「気分が悪い時に携帯は見ないほうがいい」

 いつの間にかイゼットはコートを脱いでいた。その首筋から滑り落ちた髪の毛先がケヴィンの鼻先まで垂れてくる。ダウンライトを浴びて何本かは発光しているようだ。

「お前も俺のママになりたいのか? それともパパ?」

「君はママの言いつけもパパの門限も守らないだろ」

「お前に言われたくない」

 イゼットはケヴィンの携帯をテーブルの端へ滑らせた。もう一方の手には水の入ったグラスを握っている。その手は濡れていた。蛇口から今しがた汲んできたのだろう。

 ソファはケヴィンが足を投げ出すのに十分だった。だがそこにイゼットが座るとなれば工夫が必要だった。

 グラスが仕切りにイゼットの指に吊り下げられ、ゆっくりと輪を描いて底を回している。透明な水が渦を巻いている。

 グラスから水を飲むイゼットをケヴィンはただ眺めていた。

 やがてイゼットがグラスを片手に顔を近づけてきても、身じろぎもしなかった。

 そのまま二人の口が重なった。酒を飲んで若干上がった体温の唇から、驚くほど冷たい水が流れ込む。その瞬間一度だけ喉が鳴る。

「もう一口いる?」

「いい」ケヴィンは濡れた唇を舐めた。「よく、吐いたばかりの野郎とキスできるな」

「フフ」

 イゼットはグラスに残った水を干した。今度は自分の喉に流す。「何を今更。拒まなかったくせに」

「疲れてるだけだ……」

 目が覚めてまだ三日しか経っていない。そのうちに自称恋人が三人も——しかも全員男だ——現れた。まだ結婚詐欺のキャンペーンなら納得もできたが、詐欺を起こすには全員真っ当な身分を持っている。前科もない。

 奇跡的に身体的な後遺症は無いとはいえ、その奇跡は連日の告白に及ぶ告白で台無しだ。

 いっそ事故と記憶喪失を契約を切られ、休職でもしたい気分だった。だが顧客がそれを望まない。

 ケヴィンからそれを言い出すことは無い。だから第三者からの常識的な判断を期待していたが、どうやら事故で寝ている間に常識人は世界から消えたらしい。

「ケヴィン」

 と、イゼットが呼んだ。「顔色が悪い。今は何も考えずに眠って」

 ケヴィンは首をソファの背もたれの方へ倒した。この家のソファは驚くほど柔らかく、そしてスプリングがまだしっかりとしている。程よい弾力だ。何もしなくとも、よく眠れるだろう。

「僕たちの関係は、これからゆっくり思い出していけばいい」

 イゼットの穏やかな声をケヴィンは左耳のそばに感じた。瞼はもう閉じている。「だから、それを忘れたんだよ」とどうにか怠くなった舌を動かして訴えれば、額に指が当たる。前髪を退けたのだろう、すぐに濡れた感触が左瞼の上にあった…

「忘れてないよ、君は」

 断言に近い口ぶりだった。「今は思い出せないだけで、君は覚えている。僕と君が何をしたのか、何をしようとしたのか」

 それに返答する気力はもうケヴィンには無かった。頭痛と変わらないほどの眠気が泥のように手足の先から染み込んでくる。

「忘れられるはずもないさ、君が僕のためにしてくれたこと」

 既にケヴィンは眠っていた。だがイゼットはケヴィンの顔に自分の顔を寄せて、離れなかった。両目の下にこびりついた煤のような隈。そして左目に走る傷跡。

 ケヴィンの事故をあの老執事に伝えれば、おそらく今頃病院にいたのは自分だろう、とイゼットは苦笑した。精悍さだけで説明できた顔立ちは、この数年ですっかりやつれて刺々しい狼のようになってしまった。

「恋人、か」

 今度は笑いが音として漏れた。嘲笑するような、自虐するような曖昧で微かな笑い声だった。イゼットは、仮にケヴィンの恋人を名乗る人間が何人現れても驚きはしない。それはケヴィンの、コントール下における奔放な生活を知っているからではない。そもそもそういうケヴィンの礼儀正しい友人らは、決してそんな狂言を宣ったりはしない。

「同情するよ、君の恋人さんには」

 それが誰であろうと。

 ゆっくりと体を離し、イゼットは二階への階段へ向かった。二階の自室から毛布を持ってこなければならない。それと、友人の着替えも。明日はおそらく仕事だろう。

 クローゼットにスーツがあるはずだ。他の誰でもない、ケヴィン・カタギリの仕事着が。

 クリーニングを済ませていてよかった、とイゼットは心底そう思った。

 まさか血痕の残るシャツでは出勤できないだろう。

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