第7話 フロスト区
待ち合わせ場所はフロスト区の中心を離れた一軒のバーだった。
フロスト区はセントラルから大きく北側にあり、オータム区と北東に隣接している。区の北側は完全な山岳地帯で、かつて鉱山街として栄えた頃から大勢の労働者の為の娯楽施設や飲み屋が麓に多い。
今では自動掘削機の導入や環境問題で過去ほど労働者の出入りは無くなったが、降雪量が多く、山から流れる川や滝が凍る様、鉱山開発の過程で発見された源泉を引く温泉を目当てに観光客が多い。
そのため人口は少ない割に街中を歩く人の数は多い。特に日が暮れるとあちこちの飲み屋の灯りが我先にと客足を吸い込んでいくが、それでも飲み込みきれない。
完全に自然だけを売りにしているオータム区と比べれば、歴史と商魂の逞しさが上手く隣り合った観光地の成功例と言える。
舗装された石畳の通りを歩き、ケヴィンは指定の店を見つけた。そう大きくはないそのバーは隣がレンタルボート屋で、店の奥にはそれなりに大きな池がある。ボートを停めておく敷地と桟橋を挟んでいるおかげで、夜は食堂だけ開けているボート屋の喧騒も遠い。
分厚いガラス扉を押して開ける。扉にはベルが付けられていなかった。それも当然だろう、店内の奥にはステージがあり、グランドピアノと椅子が置かれている。
右手にある長いバーカウンターについていた黒いベスト姿の男が短く歓迎を告げた。客のほとんどは広く壁もない店内に並ぶテーブルを取り巻く椅子に座っている。連れ合いごとに座っているようでもあるし、見知らぬもの同士が同じテーブルに座っているようなのもある。
ケヴィンはカウンターに座った。喫煙可なのはカウンターの、かつ入口に近い位置だった。頭上に通気ダクトが開いている。
「ご注文は?」
灰皿を差し出しながらバーテンダーが尋ねる。「甘いものがあれば嬉しいんだが」ケヴィンがそう言うと、すぐに身を翻し、カウンター奥の壁に並べられたボトルからすぐに一本を選んだ。「度数は強くても構いませんか?」
「問題ない」
「コニャックが60%のブランデー」バーテンダーはボトルからカットグラスへ飴色の液体を注ぐ。先にグラスに入っていた氷の表面を流れて底に溜まっていく。「チョコレートと併せてお飲みください」
グラスに遅れて四角形の小皿にチョコレートが乗せられる。そのチョコレートは市販のものに見えた。その組み合わせがひどく好印象だった。
「いい日にお出でくださいました」
「そのようだ」
「いえ、チョコレートは常に用意しております」
「ん?」
ケヴィンはグラスに口をつけていた。喉で尋ねると、バーテンダーは空のグラスを磨きながら顎であさっての方を指す。
示された方にはステージがある。今、奥の暗幕から大きなチェロを携えた男が現れるところだった。
喉に冷たい感触が流れ、そして流れ切った先から熱くなる。鼻に揮発したほのかに甘い香りが抜けた。
「彼をご存知ですか?」
「ああ」ケヴィンは短く肯定した。酒をもう一口舐めるように飲む。「よく知ってるよ」
それ以上はバーテンダーは何も言わなかった。イゼットがステージ中央にある椅子に腰掛けたからだろう。
ステージの真上に照明があった。古い暖色灯の光がイゼットの長い金髪に輪をかけて輝かせる。着ている服は紺色のシャツにグレーのズボンだ。何ひとつ装飾は身につけていないし正装という体でもない。それでも十分に端麗な男だった。
チェロのエンドピンを床の指定の位置へ突きつけ、楽器を挟むように長い足をくつろげる。左手で弦の走るチェロの首元を支え、右手に細い弓を持っている。紺色のシャツは袖が折られ、そこから見える腕は筋骨隆々とはいえないが、しかし座れば見上げる全長のチェロをその片腕で持って登場するのを客は皆目の当たりにしている。
何度か試すように弓を弦に触れさせる。まるで膝に乗せた少女と戯れあっているような仕草だった。
イゼットの視線が弦から一瞬逸れた。照明のために一段と暗い前髪の影からヘーゼルの瞳がケヴィンをすぐに見つける。
ケヴィンは特に反応しなかった。手に持ったグラスを掲げることもしなければ、咀嚼途中のチョコを口から零すこともない。
イゼットが音もなくかすかに微笑んだ。そして瞼を深く伏せる。
前口上も何もなかった。拍手もおじぎもない。本当にただ無名のチェロ弾きのように、イゼットは演奏を始めた。だが誰もが既に静まり返っていた。
雨だれが地面を打つような短い音の連続からはじまった。
音は段々と連続する個々のそれから、水滴同士が接触して一つになるように伸びて、なだらかにさらに伸びる。
透き通るような高音から低音へ水が流れ、やがて地面に吸い込まれて雨が乾く。
砂を擦るような風が吹き、青々と濡れていた木々の葉が萎れて枯れ、赤茶色にすすけて枝を離れる。それらが地面に落ちる。乾き切って風に砕ける。
いつしかイゼットの歌声が混じり合っていたことに、それが一体いつからだったのか、正確に答えられるものはいない。いつの間にか歌っていたその声はあまりに自然で、呼吸と共に肺へ流れ込む空気のように耳に入っていた。
ここは店内だった。夜だ。暖房は効いている。誰もがダウンやジャケットを着ている。
それでも寒々とした秋空の下で風を浴びているような気分だ。朝焼けの陽がのぼるのを、庭先でじっと待っている。目が乾くような風の中で東を向いている。
何曲弾いたのかわからない。曲と曲の合間の僅かな沈黙に拍手をしなければならないことを誰もが忘れてぼーっとしていた。
ケヴィンもまた、こみ上げるような拍手の音にようやく演奏が終わったことを知った。
「ひとつくれよ」
残り一つになっていたチョコレートを視界の左端から伸びた指が拾い上げる。
そしてそのままイゼットはナッツ入りのチョコレートを口に放り込んだ。背後から求められ
た握手に笑顔で応じて、それからケヴィンの横へ座る。
「怒っているのかい、ケヴィン」
「チョコレート一つで怒りはしない。だがそれが最後のチョコレートだったなら話は別だ」
「マスター、さっきのチョコはまだあるかな」
「徳用ですからいくらでも」とバーテンダーは言い、空になった小皿に山へなるほど盛り付けた。
ケヴィンは皿から漏れたひとつを拾い、キャンディにするような個包装を片手で器用に剥がして口に入れた。すぐにブランデーも飲む。
「同じものを僕にも——しかし元気そうじゃないか。轢き逃げに遭ってまだひと月とないのに、どこにも包帯を巻いていない」
すぐに届けられたグラスをイゼットが受け取る。一口飲んで、甘いな、と呆れたように言った。
「轢き逃げ犯とはいえ法定速度を守るだけの良心はあったってことだ」
「法定速度は守るのに、救助義務を守る良心は無かったようだけどね」
「いずれにせよ思いの外早く出たからな、お前の口座に前払いの何割か戻るだろう」
氷がグラスの内側とぶつかる音がした。誰のグラスで鳴ったのかは定かでない。
「なんだ」イゼットの声には揺らぎがなかった。「君が僕に会いに来たのは旧交をあたためるためだと思っていたのに、そんな事務的な事情だったなんて」
「通報者はフロスト区の市民だ、お前じゃない。それなのにお前が誰より先に入院費を払った、つまりセントラルの病院の受付で手続きをした。病院に辿り着いた」
「そりゃ、あの事故の直前まで僕と君で食事をしていたからね」
イゼットはケヴィンがしていたようにチョコを齧り、そしてブランデーを飲んだ。そして横目で笑う。
「君と別れてから間も無く、救急車の音が聞こえた。随分音が近いから出て行ってみると、君らしき人が担ぎ込まれていたから驚いたよ。それで救急隊員に話をしたら、君の家族に連絡をしてほしいと言われた。でも」
そこまで言うと、イゼットは肩をすくめた。「そんなことをしたら目覚めた君に殺されると思ってね。少なくとも君の状態を確認するまでは僕のところで止めておいた」
「お前、俺の家の番号を知ってたか?」
「君の家の執事の人だね、バッカスさんは生涯現役だろ? まあ、引退していても彼に伝えれば後はよろしくしてくれる。だからこそ、彼に連絡するのは君の状態が命に関わるとなってからだ。そして幸い、君の外傷は命に別状がないものだった」
「世話をかけたな」ケヴィンは灰皿の縁に長らく放置していた煙草について思い出した。酒を飲み始めてからずっと手放したままだ。「ああ、俺が思っていたよりずっと、面倒をかけた」
「……よしてくれ、やけに辛気臭いじゃないか。何か困ったことでもあったのかい?」
「いくつかあった」
「記憶を失ったことかい? それとも、寝起きに誰かに告白でもされた?」
煙草に触れようとしたケヴィンの手が止まる。
その手に別の手が触れた。驚くほど冷えた手だった。だがロックのグラスを握っていたのだと思い出せば、その温度は当然のことだった。
二人のグラスはどちらもほぼ空になっていた。
「お前はそんなに心配性だったか?」
「アクター医師は悪い人ではないよ。ただ、彼は自分の給与と専門性に釣り合いが取れていないと悩んでいるだけで」
「あのハゲの覗き癖は筋金入りだ。お前が小遣いを渡した相手はアマチュアだが、歴は長い」
「へえそうなんだ」
イゼットはなんという事もなく笑った。「まあ、君が退院した今じゃどうでもいいさ」
イゼットはケヴィンの手を離さなかった。若干数名、店内の客の中には二人の手が重なっていることに気づいて好奇心を刺激された者がいるようだった。
差し向けられる視線に不快感を覚えながらもケヴィンは「何の為だ?」と尋ねた。
友人の事故現場に居合わせた。だから搬送先に駆けつけた。これはいい。
友人の複雑な家族関係を慮って、入院の手続きを代行した。これもまだ納得できる。
だが、入院中の友人を秘密裏に監視する——これは友人の、親友の行いとしてもあまりに逸脱している。
監視する以上、イゼットには目を覚ましたケヴィンの行動に気掛かりなことがあった。
だがそこまで監視しておきながら今日までイゼットから接触してこなかった。それはケヴィンが記憶喪失であるからだろう。その事実をイゼットは担当医師から聞いた。だから積極的に接触する必要が生まれなかった。
「お前は俺の何を知ってる?」
イゼットは優しく微笑んだままだった。だが、どこか罪悪感を滲ませた笑みだった。
ケヴィンの眉間に皺が寄った。瞼にかかる前髪が不意に鬱陶しい。中途半端に記憶を失い、そして今なお何も思い出せない自分に苛立ち——かぶりを振った。
その瞬間。
重なった手に伝わる圧力が増した。
一瞬のことだった。気のせいかと思うほど短い時間のことで、実際ケヴィンが鈍い痛みで視線を手元に下ろした時、上になったイゼットの手の甲には何の異常もなかった。ただ筋張った広い手のひらがあるだけだ。
「なんでも知ってるさ」
と、イゼットが言った。溜め息をついて、取り直すように改めて笑う。今度は混じり気のない微笑だった。
イゼットがおもむろに隣の友人へ顔を近づけた。そして極めて小さな声で囁く。
「僕は君の恋人なんだから」
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