第6話 不幸な事故

 「俺の事故について何を知ってる?」

 軽く掲げるようにしてミランの手を躱したカップをそのままに、ケヴィンがもう一方の手に持っていたカップへ口をつける。ケヴィンにはコーヒーの良し悪しが分からないが、それでも決して美味くはないことだけはわかった。

「警察が病院にも来たんじゃないのか?」ミランは伸ばした手を自分の膝に戻した。姿勢はやや前のめりになったまま。

「来た。だが犯人なんかは全く分かっていないとのことだ」

「調べるのか?」

「その必要性自体を調べたい」ケヴィンは短く溜息をついた。「こういう仕事柄、変な恨みを買ったことはこれまでにもある。こっちがいくら仕事だと言っても、時には有名人と二人で買い物に行く。話の通じない相手には何を言っても無駄だと俺が思ってるように、相手だって俺を同じように思う」

「俺たちのファンがあなたを轢いたと」

「666関係とは限らない。もしそうなら、そういう血気盛んな輩の存在を念頭に置いて、今後の警備計画の警戒度を少し引き上げる必要があるだろうが、その可能性は低いと思っている」

「何故?」

「理由は二つ。まずこれまでの経験上、本命の為に邪魔者を排除する側の心理は、正義は我にあり、だ。正義の執行を隠す必要はないし、なんなら誇れる善行を誇らずにはいられない。だが少なくとも事故前後のSNSや君らの公式ページのコメント欄にそういったものはない。

 次に、俺を轢いたのは高級外車だ。君たちのファン、クイーンズレコードが保有する社用車、この国にいる役員と平均社員の年収……そういった関係者の環境を考えるに、そんな車を持っている可能性は低い。とはいえ車の購入者から追うにも、個人購入やら贈与、転売、貸与があって全部洗い出すだけで時間がかかる」

「フロスト区の田舎道じゃ、監視カメラも無かっただろうからね……」

 ミランの声は冷え切っていた。まだ昼前だったがコテージの窓にはブラインドが下されたままで、切り刻まれた白い光では室内全てを照らしきれない。白い髪と色素のほぼない灰白の目が少ない光を全て吸収して、全体的に埃っぽい室内のうちそれらだけが磨き抜かれている。

 輪郭のない水彩画のような景色のなかで、ミランだけが油絵で描かれたように浮いている。

 ケヴィンはミランの手の甲に血管が浮き上がっているのを指摘するか悩んだ。

 悩んで、指摘する代わりに掲げていた方のカップをもう一度差し出した。

 今度は間違いなくミランの手とカップは出会った。その動きのために手の甲に浮いた血管が消え失せる。

「その様子じゃ何も知らないようだな」

「知っていたら、あなたが言うところの正義を振りかざしていたかもしれない」ミランは鼻で笑った。「大切な人が卑劣な轢き逃げに遭遇して意識を失っている、こんなに辛いことはない、と涙を流せば。カタギリ、警察に見つけられなかった犯人を、もしかすると高級外車なんて到底買えない、どこにでもいるような人たちが見つけてくれるかもしれない」

「ああ、そのコースなら裁判まで勝手にやってくれるから手軽でいいな」

 ミランがもう一度笑った。今度は口から漏れた、本当の微笑みだった。湯気を上げる黒い水面に息を吹きかける。そして一口飲んだ。

「……事故は突然のことだった。俺も何も知らない」

 声は小さなものだったが、弱々しくもなく、また掠れることもなくケヴィンの耳に入った。

「ただ、事故が起こる数ヶ月前から、あなたは目に見えてやつれていた」

「だろうな」

 ケヴィンは自分の目元を撫でた。入院生活でただでさえ睡眠時間が伸びてなお、そこには隈がこびりついている。

「666の仕事ではなんらトラブルは無かった。今年の六月頃から、かな。あなたがどこか憔悴しているように俺には見えた」

 六月。

 ケヴィンは顔には出さず考えた。自分の顔に増えた見覚えのないものは、目の下の隈だけではない。左目から額にかけて走る切り傷もだ。

 そしてその切り傷とは、見舞いに来たドミトリによれば五月か六月の頃に、ケヴィンが「酔って転んで」つけた傷だ。

 これは単なる偶然だろうか——いや、おそらく偶然ではない、とケヴィンの勘が告げる。人生においてイベントはそう多くない生き方をしてきた。こんな奇妙な出来事が、しかも同時期に起きればそこには何かしらの関連がある——勿論、ただひたすら単純に不運だったという結末も否定できないが。

 

「憔悴していた、と言うのは?」

「さあ。俺とドミトリが聞いてもあなたは、お前たちには関係ない、の一点張りだったから」

「俺が言いそうなことだな」

「でも俺が思うに、あなたがああまで憔悴するような事なんてそうないと思っている。あなたは執着が薄い。特に人間相手には」

「酷い言われようだな、そちらの言い分だと俺たちは恋人だったらしいが」

「だからこそあなたはプロなんだろう」ミランは目を伏せてまたコーヒーを飲む。もう残りが少ないのか、カップが大きく傾く。「だからこそ、あなたが拘るなら、それは仕事にまつわることだ——そして俺とドミトリじゃない、なら俺たちより前に請け負っていた案件だ」

 業務をマニュアル化し、随時アップデートすること。

 常に引継書を作成し、有事の際、後任や新たに警護チームに加わるものへの情報共有を可能とすること。

 ISCの新入社員研修で叩き込まれることの一つだ。特に少数での警護だと細かな注意事項は担当者しか分からず、急な担当変更や増員の際、滞りが出る。本社から新たな人員派遣の際にも、現場の要求とマッチングにずれが生じることもある。

 ケヴィンもまた常に自分の業務は頭に入れ、そしてデータ化もしている。他の誰にも安易に盗み見られないようセキュリティを徹底した上で、契約の履行を確認する証明としても記録をしている。

 現に666との警護スケジュールは記憶を失ったケヴィンに対し、それは過去の自分から今日の自分への引継書になった。

 そして当然、その資料をさらに遡れば、一つ前の案件についても記録がある。

 666と同じクイーンズレコード所属の音楽家。

 チェロと声楽。少し前に第一線を退いた。

 引退前の一年以上、ケヴィンはほとんど彼と共に過ごした。一ヶ月間、クルーズ船に乗って同じ客室で過ごしたこともある。それが仕事だったからだ。

「カタギリ、どうして退院を急いだ」

 その声は既に答えを確信していた。

「誰かと会う約束でもあるのか?」

 ミランがカップをテーブルへ戻した。カップの底を打つ音で分かる。カップの中は空だ。

 ケヴィンのカップにはまだ半分以上コーヒーが残っている。

「カタギリ」

 ミランが言った。声音は一切変わっていない。声の高さも一切変わっていない。

 だがケヴィンには手に取るように目の前の男の怒りを感じることができた。

「イゼット・ウィンターとはもう会うな」

「……会わないだけでいいのか?」

「関わるな、と言いたい。だが職務上関わる必要もあるだろう、それにあの男があなたの大学時代からの友人だということも聞いた。だから」

 眉一つ動かさず、ミランは目の色を変えた。それは白さを増したように見えた。

 だが事実は異なる。事実としては、ミランの顔色が苛立ちに青ざめたから、その濁った顔色に対して目の白さが浮いただけだ。

「だから、俺はしたくもない妥協と遠慮をして、これ以上なく要求を譲って、あなたに言っているんだ。あの男ともう会うな、と。電話やメールまでは制限しない、それらは痕跡が残るからだ。次にあなたに何かあった時、あの男の関与を引き摺り出せる」

「ウィンターは随分嫌われてるな」

 答えはない。だがミランが明らかにケヴィンの事故の件でイゼットを疑っているのは明らかだった。

 ケヴィンとしても、事故の件とイゼットは繋がっている。ケヴィンの入院費を払った以上、イゼットは病院へ搬送されたタイミングで同乗していたか、その直後に病院にいる必要がある。そうでなければまずISCや家族に連絡がいく。それを差し止めて手続きをした。

 ——しかしケヴィンの記憶にある限り、イゼットは高級会社を持つような男ではない。彼の妻なら持っているかもしれないが。

「今夜、ウィンターと会う。退院祝いでな」

「会うな」

「俺のプライベートに口を出す権利は誰にも無い。お前が本当に俺の恋人だろうと、恋人なら尚更、そんな命令を吐かす奴と付き合うはずがない」

「仕事に支障が出る」

「出さん」

「同じことを言って……」ミランが両手を握り合わせた。「そう言って車に撥ねられたのは誰だ?」

「今度もそうなったら、その時はISCも調査に乗り出す。お前も同じ会社の先輩に気を遣わず、好きに裁判でもなんでもしろ」

「なら俺も同席させてもらう」

 ケヴィンはソファに深く沈んだ。スプリングが馬鹿になった背もたれは反発性もなく、ただずるずると背中を滑らせる。ひどく間抜けな格好になったが、ボディランゲージとしてはこれ以上ない適切な表現だった。ケヴィンは呆れていた。心底呆れ果てて、まだ言葉もたどたどしかった幼少期以来のまったく素直な心のままに両手を上げた。

 

「つまりお前は俺にこう言って欲しいのか? お前たち666は今や若年層を中心に爆発的な人気がある、そんな大人気のミラン・アーキテクト様が軽々と飲み屋にでも言ったらそこがサイン会場になる。お前たちの活躍は喜ばしいことだ、誇りに思うよ。だから勘弁してくれ、お前は俺に時間外労働で受付でもさせる気か?」

「会うなと言ってるんだ」

「オーケー、一つ確かなことが分かった。俺とお前は恋人じゃない」

「あなたが車に轢かれると分かっていたら書面でも作っていた。あなたが道路に頭を強く打ち付けたぐらいで記憶を失うと分かっていれば、弁護士だってつけて口約束じゃなく証人をつけた」

「なあ、何か悩みがあるのか? 昔女にこっぴどく振られでもしたか? 189センチ80キロの大男にときめかなきゃならないほど、お前は何に困ってる」

「そのあんたに困ってるんだろうが!」

 突然のことだった。

 二人の間にある脚の短いテーブルがミランの足で蹴られた瞬間、ケヴィンは脊髄反射で同じように片足を上げてテーブルの側面を押さえ込んだ。

 結果、二人の足に両方向から蹴られ、押さえ込まれる形になったテーブルは床から数ミリ浮いた状態でミシミシと軋んだ。ミランのスニーカーとケヴィンのブーツの底、左右からそれぞれ真逆の方向へ向く圧力を喰らって、天板の中心が今にもひしゃげそうになっている。

 現に拮抗している今も徐々に悲鳴を上げるテーブルから細かい木屑がこぼれていく。

「驚いたな」

 と、先に口を開いたのはケヴィンだった。「お前、やっぱりISCの新入社員か?

 テーブルを挟んで座った相手の制圧方法の一つにテーブル自体を利用した動きがある。テーブルの天板を掴み、テーブルの脚を刺股のようにして相手を押さえつける方法。もう一つはテーブルを蹴り飛ばして相手ごと床に引き倒し、マウントを取る。

 まず間違いなく苛立ちが爆発しての行為だろうが、ともかくミランの咄嗟の行動は後者のそれだ。ケヴィンの反射が間に合わなければ今頃、脛の辺りに天板が衝突し、その痛みに悶えているうちにソファとテーブルで足を挟まれていたに違いない。

「でもこの家の家具は賃貸だ。こんなボロテーブルのために金を払うのはごめんだろ」

「あの男とは会うな」

「会うよ。もう約束した」

 ケヴィンは足に込めていた力を抜いた。そして突如片側から受ける力を失って傾いたテーブルを足の甲へと転がし、そのまま器用につま先で持ち上げる。

 何か言おうとしたミランを制し、ケヴィンは言った。

「ウィンターには会う。だが仕事の支障を懸念する顧客へのフォローも必要だ」指を立てる。刺すような視線を集め、逸らするように。「だからこうしよう、会う場所、話していた時間、解散時刻、これを適時報告する。だから俺の好きにさせろ。もしウィンターと会っている最中にお前の姿が見えたら、お前が手配したような輩を見つけたら、明日の仕事を最後に俺は担当を降りる」

 ケヴィンが残りのコーヒーを飲み干すまで、ミランは考えていた。

 テーブルが元の位置に戻される。するとようやくミランが動いた。床の上に転がっていた空のカップを持ち上げ、テーブルへ置く(天板が軋んでしまったためか、カップは若干傾いていた)。

「分かった、その条件でいい」

 まるで別人のような落ち着きようだった。それとも先ほどまでの激昂が別人だったのか。尋ねても良かったがケヴィンは尋ねなかった。確信があった。この男と自分は付き合っていない。

 だが——だとすれば何故この男は嘘をついたのか。それも恋人だなどというちゃちな嘘を。

「寛大なご理解に感謝する」ケヴィンは空になった自分のカップともう一つのカップを回収した。「それじゃ俺はシャワーを浴びて着替えるが、折角だ、見ていくか?」

「他人の為に浴びるシャワーシーンには興味ない」

「なら、話は終わりだな」

 ミランはキャップを被り直すと、短く別れを告げて呆気なくコテージを出ていった。やがて車のエンジン音とタイヤが雑草を踏み締めてそばの道路へ入っていく。無駄な動きは一切ない。

 まだ点灯していないくすんだテールライトをブラインドの隙間から見送り、ケヴィンは二つのカップを流しに置いた。イゼットとの約束時間までたっぷり時間はある。ミランを追い出す理由はなかったが、逆に一緒にいる理由もない。

 しかし、それまでにするべきことはある。コテージ内を洗い出して、事故前の手かがりがないか探すべきだろう。自分が遭遇したのは、どうにもただの不幸なひき逃げではないらしい。

 カップを洗おうと蛇口に手をかけた時、シンクの脇に転がる砂糖の個包装が目に入る。ミランのコーヒーに入れた砂糖の空袋だ。

 捨てようと手に取る。その時、よく見ると細長い包装紙の表面にちぎれたセロハンテープが付いている。そのセロハンテープに何かの文字とマークが見えた。

 目を凝らすと、それは筆記体で書かれた店の名前だった。洋菓子店の名前の一部らしい。ロゴにシェフ帽を被った熊がいる。

 流し台のすぐ後ろにゴミ箱はあった。足でペダルを踏めば口が開く。ほぼ空のゴミ箱だ。透明なポリ袋が被せてある。

 ケヴィンはその砂糖袋をゴミ箱ではなく、尻ポケットへ仕舞った。これを捨てるのはもう少し後でいい。

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