第5話 リダイヤル

 目を覚まして四日目の朝にケヴィンは退院した。特別病棟の入院患者に配られる、病院内施設を無料で利用できる特別なカードを十分に使い切ったとは言えなかったが、それ以上に、毎朝起きてすぐパステルな色の入院着に出迎えられるのが耐えられなかった。

 事故当時身につけていた服は病院側によってクリーニングがなされ、新品同然で返却された。白いTシャツにネイビーのパーカー、黒のジャケットに黒のパンツ、履き潰す寸前のショートブーツ。

 紙袋に数少ない私物を入れて、病院正面玄関を出る。円形に渦を巻いたタクシーやバス用のターミナルに人はいなかった。空車のタクシーが二台縦列駐車しており、先頭の運転手がケヴィンをチラッと見たが、すぐに目を逸らした。

 ケヴィンはそのままターミナルの道路を突っ切って、なだらかな丘のようになった広い敷地の中を歩き出した。病院周辺には芝生がひかれ、入院患者に限らず市民に開放された公園のようになっている。勿論それも一般病棟側のことであって、それを防波堤のようにして奥に立っている特別病棟の敷地には寛大さというものが一切無いのだが。

 足に包帯を巻いた入院患者と思しき若い男と女性が芝の上に用意されたベンチで談笑している。今朝は秋晴れで風もほとんどなく、気温もまだ高い。昼ごろまで長く過ごすには、朝早く訪れるほかない。

 中心地の方から市内巡回のバスが緩やかなカーブを繰り返しつつ、こちらへやってくる。広く取られた歩道を歩くケヴィンとすれ違う。かすかな風圧が頬を押した。整髪料をつけていない前髪が一斉に揺れる。

 病院の敷地内を数分歩いて横断し、市道と合流する交差点まで出た。午前九時前、土曜日の交差点で赤信号を食らっているのは一台の軽自動だけだ。真っ赤な四角形のやけにレトロな車だった。

 セントラルは八つの区からなる国内においてその名の通り中心地にあたるが、日中の賑わいのほとんどは他区からの働き手や、国内旅行者だ。実際道路をほっつき歩いている人の数はそう多くない。誰もが電車や地下鉄、車でやってきて、目当てのショップやビルで時間を過ごし、そして帰っていく。

 セントラル駅前などは空中通路やデッキが二重に渡されている箇所もあり、たった一つの駅に対して入口と出口の数は信じられないほど多い。

 ケヴィンの記憶が正しければ、ケヴィンは今の契約を迎えてから、セントラル郊外にコテージを借りている。事故直前か、事故から今日まで、コテージに放火犯でも訪れていない限りは、帰るべき場所はそこだ。

 セントラルから西へ、オータム区寄りの区境にほど近い下道のそば。舗装も草刈りもされていない、葦が生えまくった野原に墜落したようにポツンとあるコテージ。我が家の姿を、ケヴィンは脳裏にくっきりと思い描くことができた。

 待っていた信号が青に変わる。ケヴィンが横断歩道へ踏み出すと同時に、横を平行に軽自動車が追い抜いていく。

 交差点を越えてすぐにコンビニエンスストアがあった。

 自動ドアのところで、ちょうど店から出てくる客とすれ違った。ケヴィンは飲料棚から炭酸水とコーヒーと、そしてサンドをいくつか手に取ってレジへ向かった。

 店員はレジ横に陳列された煙草の補充をしていた。ケヴィンに気づいて、剥いでいたカートンパッケージから手を離し、ほんの十数秒で会計をしてみせた。

 ケヴィンが店から出ると、入り口から左手側にある駐輪用の柵に男がもたれて立っていた。

 

「仕事か?」

 と、ケヴィンが尋ねる。すると柵にもたれたままのミランは「いや」と言った。

「あなたの見舞いに行くつもりだった」

「三日前にも来ただろ」

「車に轢かれた患者が、目を覚ましてたった三日で退院すると聞いてね」

「だとしても、見舞い品に煙草をワンカートン買うか?」

 ミランは手に下げていた白いレジ袋から一つ、暗い赤茶色の下地に白のラインでパッケージされた煙草を取り出した。人目を避けるためではなく人目を集めない格好だ、と横目で人気バンドのボーカルを一瞥する。

 有名なスポーツ用品企業のロゴが入ったウィンドブレーカーにジョガーパンツ、スニーカ、それら午前からランニングに精を出す健康志向の若者そのものだ。深く被った黒いキャップの奥で目が光る。

 その銘柄は間違いなくケヴィンが愛煙する煙草のものだった。

「そろそろ吸いたくなっていると思って」

 言い終わる前にミランが煙草を放った。それをケヴィンは片手で受け取る。尻ポケットからライターを取り出して火をつけるまでの手つきはひどく効率化されていた。

 乾いた透明な空気に向かって白濁した煙を吐き出す。雲もなく晴れた空に立ち上る百害の煙に、ケヴィンは目を細くした。脳が濡れるような恍惚とした気分になる。

「うまい」

「……それだけは理解できないな」

「自分の体を壊して税を納める。これ以上立派な国家への奉仕があるか?」

「煙草税をいくら納めても、老後の年金が増えるわけじゃない」

 煙草を吸っている途中に笑ったため、ケヴィンの口からは細かく千切れた煙が漏れた。

「それに、あなたの口が苦くなるのは嬉しくない」

「まだ言ってるのか」

「事実だからね」

「俺に舌入れたことあるのか?」

「あるよ」

「そうか」ケヴィンは煙を深く吸って吐いた。「聞くんじゃなかった」

「コテージに帰るんだろ。送っていく、隣のパーキングから車を借りよう」

 断られることも断らせることも想定していない口調でミランは言い切り、さっさと動き出した。わざとらしく手にした袋が音を立てて、半透明のレジ袋に煙草のパッケージが透ける。まるで馬を誘う人参のように鮮やかに。

 セントラル各所に配置されているカーレンタルの九割は既に電気自動車に切り替わっている。市営パーキングで自由に借り戻しできる利便性もあって、元々公共交通機関で網羅できる市内移動のために自家用車を持つ市民はほとんどいない。

 ミランが運転席に座るなり帽子を取った。鳥の羽に似た特徴的な癖を持つブロンドは白に近く、だがケヴィンのそれとは真逆だ。痛みきって色が抜けた、という印象を持たせない。

 666というバンドの売り出し方の一つとして、ミランとドミトリの外見は明らかなコンセプトを持っているようだった。実際、666が今冬出演する件のドラマでも、彼らは人ならざる未確認生物として——ミランは天使として、ドミトリは悪魔としての役が与えられている。

 陶器のような白い肌と白鳥の羽のような髪を持つミランは冷徹な天使のようだし、心地よい微笑みを浮かべる頬に意味深な黒子と鴉の羽のような髪を持つドミトリは狡猾な悪魔のモチーフに合致している。

 とはいえその天使が男とディープキスをすると知れば、世間は困惑するだろう。今度こそケヴィンは法定速度を無視した車に轢き殺されるかもしれない。

 ミランの運転は至極まともなものだった。助手席にいるケヴィンがシートベルトの存在感を強く感じるようなこともない。

 高速道路の無料区間を当然のように無視して、車は全ての道程を下道とすることを選んだ。高速道路を使うより十五分ほど到着が遅れるが、元よりそう長い時間ではない。

「明日、」

 中心街を抜けて車線が減り、久しぶりの対向車であるトラックとすれ違ってすぐにミランが口を開いた。

「音楽番組の収録がある。二部編成だ、深夜までかかるだろう。本当はレコード会社からマネージャが来る予定だったが、あなたに問題ないようなら」

「十八時に迎えに行く。収録は中央テレビ本社だろ、渋滞があっても余裕で着く」

「迎えに来る場所は分かる?」

「お前さんたちが借りてるスタジオ、ダンデ通り二丁目三番十一号」

「それは覚えていたのか」

 俺のことは忘れたのに、と暗に言われたようなものだ。だが言葉としては言われていない。

「常に仕事の引継書を作っておく。ISCの新入社員研修で教わることだ」

「自分自身に引継書を使うのはあなたぐらいだろうね」

「嫌味か?」

「俺たちを守るはずのガードマンが交通事故に遭ったんだ、これくらいは許して欲しいな」

「正論だ」


 ケヴィンは手に持った煙草の箱を弄んだ。カーレンタルは原則車内禁煙だ。まだ半分しか吸っていない先端のつぶれた一本目が銀紙の中で燻っている。公共に貸し出されるものだから仕方がない。喫煙者を借りるなら事前予約がいる。

「だから言ったんだ、気をつけろって……」

 しばらく黙り込んでいたミランが零した。車窓から見える景色は既にセントラルの高層ビル群を抜けて、途端に色褪せた古写真のようになっている。区境は特にセントラルへ向かう交通網によって田園や発電所、工場が山々の間に点在する。

「俺が轢かれた理由に心当たりがありそうだな」

 貸しコテージが——それでも数キロごとの間隔で——立ち並ぶ葦の原へ無造作に車を停めて、ドアを開ける。蒸せ返るような土と青臭い匂いがする。草木の匂いだ。それ以外には何もない。

 ミランは眉を顰めて答えなかった。ケヴィンは不機嫌そうな雰囲気を感じ取り、同じように黙ってコテージの鍵を開ける。何度も撥水性の白いペンキを塗り込められたコテージの外見は、遠目にみれば新婚夫婦が夢見そうなこぢんまりした邸宅だが、周辺一帯の褪せた草原の退廃的な空気には耐えきれないだろう。

 玄関を開けると短い廊下があり、左手にリビングダイニング、右手に閉じたドアが二つ並んでいる。二階はない。正面奥は物置と浴室だ。

 室内は閑散としていた。備え付けの家具はヴィンテージ風とは言えば聞こえいい程度の古びたもので、しかし機能的には問題ない。ケヴィンが買ってきたものを適当に冷蔵庫へ突っ込む間、ミランはリビングのテレビ横にある本棚を眺めていた。

「本は硬派なタイトルばかりなのに、映画はB級ばかりだな」

「世間のB級が俺にとってはA級だ」

「サメの映画しかない」

「サメが好きなんだ」ケヴィンはキッチンの流しで手を洗った。蛇口から出る水の透明さに、密かに安堵する。「コーヒーに砂糖は?」

 ミランは顔だけをケヴィンに向けて頷いた。ミルクは備えつきがなかった。砂糖もどこかで買った飲み物についてきたのだろう細長い個包装のものがシンクに転がっていただけだ。

 コンロで二人分の水を沸騰させ、ノーブランドのインスタントコーヒーを二つ用意する。片方に砂糖を入れてリビングへ行くと、ミランはケヴィンが腰を下ろしたスツールとは対面にあるソファへ腰掛けた。

 砂糖入りのコーヒーをケヴィンが差し出す。ミランが手を伸ばす。

 しかしミランの指先はカップを掴むことができなかった。

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