第4話 獣の数字
666はかの黙示録によれば獣の数字として著名である。ただしその解釈は、他の何物もがそうであるように、解釈された時代と解釈人の信仰、文化によって多岐にわたる。
獣の刻印であったり、神の代理人であったり、はたまた欲望や執着、輝きを示す。
ともあれいずれの解釈も物騒なことではある。
ましてやその数字を冠する二人組から一日の間に「恋人」と呼ばれた日には背筋に寒いものを感じるのは仕方がないことだ。
ミラン・アーキテクトは記憶を失う前のケヴィンと自分は恋人同士だったと言った。
そして全く同じことをドミトリ・カデシュも言った。
この二つの事象について考えた時、有りうる可能性は三つある。
一、ミランもしくはドミトリの一方が嘘をついており、どちらかが本当の恋人である。
二、ミランとドミトリは共に嘘をついており、いずれも恋人ではない。
三、ミランとドミトリは共に真実を語っており、いずれも恋人である。
セントラル総合病院のリハビリテーション施設は二十四時間開いている。日中は患者なのかバカンス中なのかわからない妙齢の水着姿で賑わうプールも、流石に早朝四時は姿を見せない。
まだ暗い空を天窓越しに眺めながらプールサイドでストレッチをする。ケヴィンは自分が冷静であることに安堵していた。自分の体と精神が自分のコントロール下にあることは何よりも重要なことだ。
屈伸をし、前屈をし、体側を伸ばす。プールには利用者も職員もいない。ただ先ほど入り口でケヴィンの患者用のパスカードを確認した白い郵便ポストのようなドローンが静かにこちらを見守っているだけだ。
秋から冬へ移り変わる時期ということもあって、プールは温水だった。それでも今は冷えている方だろう。冷め始めたバスタブのぬるま湯に近い。
ゆっくりとクロールで泳ぎ出しながら、三つの可能性について考える。
事故当初のケヴィンの持ち物から——特に携帯電話からは、これといってミランやドミトリとの特別な関係を匂わせる痕跡はなかった。それぞれとの通話記録がそれなりにあり、その数や頻度、内容に偏りはない。それ以外はクイーンズレコードの総合受付とISCの総務部、宅配サービスの番号。
であればまだ数時間ばかり見て、会話した経験からミランかドミトリが嘘をついている可能性を考える。それは大いに有りうることだ。
だが——だとすれば、何故彼は、彼らは恋人同士だという嘘をつくのか?
ただの悪戯ということも勿論ある。次に会った時、盛大な冗談だったと打ち明けられる——場面を想像しようとしたが、どうしても難しい。
ミラン・アーキテクトが深夜零時過ぎの病室にいた理由がつかないからだ。
仕事中の負傷は実は少なくない。ケヴィンはこれまで顧客から見舞いを受ける事はそれなりにあった。だがそのどれもが、常識的な時間帯だ。
あの日目を覚ます確証も何もないのに、ミラン・アーキテクトは病室にいた。それも数時間後には仕事があるにも関わらず。
仮に恋人でなかったとしても、ミランと自分の間に何かがあったことは間違いない。
二十五メートルをゆったりと泳ぎ切り、壁でターンして折り返す。
壁を蹴った推進力に乗ってそのまま加速する。息継ぎのたび水上が見える。まだ空は暗い。
——最悪のケースは、あの二人がどちらも嘘をついていないケースだ。
ただしその場合、「恋人」の意味は辞書に載っているようなものではない。まともな相手を二人も相手にしてそんな馬鹿げた二股などしない。
だが、この三人が揃って馬鹿なら、可能性はある。馬鹿げた三人の同意によって成り立っていた関係性。例えばケヴィンが過去に三人組の女性としていたような、非常にビジネスライクな四人での“友人“関係。
売り出し中のグループだった彼女たちは事務所からの圧力と世間からの神聖視に鬱屈していて、ケヴィンはそれらとは一才無縁だった。そして彼女たちはケヴィンに対し、人間的な魅力を一切感じていなかった。
必要だったのは体力のある男女とマナーだけだった。それが揃っていて、全員の同意があった。
そういった同意の上での友人関係が、ミランとドミトリとの間にもあった場合。
その事実を彼らが「恋人」とオブラートに包むのも無くはない。
それから五百メートルほど泳いでも、あらゆる可能性は推測と想像の域を出なかった。
ケヴィンの考え事はプールサイドの人をたっぷりと待たせていた。
だがケヴィンはゴーグルをしていても水泳帽をしていなかった。息継ぎのたび顔を上げていたとしても、目元に前髪がかかっていたと言えば「気づかなかった」で理屈がつく。
「やあ」
と、ケヴィンはたった今気づいたと言わんばかりに笑顔を浮かべた。
プールサイド奥のベンチに腰掛けていたブルネットの看護師は私服姿だった。夜勤を終えてこれから帰宅するのだろう。入り口に程近く、二階に突き出たトレーニングルームの床のせいで影になっている中では肌が白く浮かび上がって見える。
二人の間にあった距離はケヴィンが全て埋めた。
そうしてはじめて看護師は組んでいた足を解いた。膝下まであるタイトスカートから覗く足にはタイツもストッキングも履かれていない。
ナースキャップから解放されたブルネットは左右対称のウェーブを描いている。黒いVネックのニットの襟の内側へ毛先が入り込んでいた。
「まるでプロの水泳選手みたいね、カタギリさん」
「体の丈夫さだけが取り柄だからね」
「それはよく知ってる」
看護師はケヴィンがベンチに置いていた青いタオルを広げ、それで目の前の男の肩を包んだ。看護師の顔は丁度ケヴィンの鎖骨の高さにあった。
「意識のない貴方の点滴を変えて、毎日脈を取っていたのは私」看護師はタオルの端でケヴィンの顎の辺りを拭いた。拭いたそばから新しい水滴が流れた。「今なら手を握っただけで貴方が分かるかも」
「嬉しいよ」
ケヴィンは言いながら、タオルの端を看護師からそっと奪った。
看護師の眉がかすかに跳ねた。目尻よりやや長く、山なりに描かれた美しいアイラインは髪色より暗いオレンジブラウンだった。アイシャドウはしていない。それが却ってアイラインの完璧さを際立たせていた。
「あのバンドマンと付き合っているの、本当に?」
「どうにもそうらしい」
「覚えていないのね」
「ああ、でもほら俺ってゲイだから。君に勃たなかった、分かるだろ?」
「——なんですって?」
「分かりづらかったかな。取引の方法を変えようと言ってるんだ」
咄嗟に看護師が横へ逃れようとするのを、ケヴィンは壁に腕をついて止めた。端からこの位置はプールの監視カメラの死角だった。頭上は二階のトレーニングルームのフロアが屋根代わりになっているし、角度によっては二人の足元ぐらい見えているかもしれないが、逢引にしか見えない。
「何の話?」看護師は至近距離でケヴィンを見上げた。
「そっちの事情は別に興味は無い」ケヴィンは壁についた手の指を動かした。ピアノを弾くように。「どうせあのアクターとか言う医者だろう? 君とあのハゲなら俺は君の方が好みだ。だから君に肩入れする。ゴシップのネタなら適当にでっち上げてやればいい」
「ジャーナリストごっこもさせてくれないの?」
「プロなら、尚更きちんとした対価を受け取って仕事をするべきじゃないか?」
二人の顔がさらに近づいた。監視カメラ映像を外科の医師が見ることはまず無いだろうが、もし見たとすれば、看護師の色仕掛けにまんまと引っかかった患者がそこにいるだけだ。
「あの医師は歩合制かもしれないが、俺は前払いだ。プロへの敬意がある」
長い睫毛に縁取られた看護師の目は溶かしたチョコレートのように艶めいていた。それと見つめ合うケヴィンの目は凍った湖のように凝った水色をしている。
「ゴシップ誌にネタを売り込んで、その情報代の何割をあの医者から貰う約束をしてるんだ?」
看護師は目を逸らさなかったが、化粧を落とした顔色がだんだんと白くなっていく。
「コンセントに備え付けの盗聴器は電波で探知されるからやめた方がいい。それにあれは旧式だな、カバーが浮いているから早急に取り外すか、最新のものに取り替えるのをお勧めする。なんなら良いメーカーを紹介しようか? 限定クーポンがあるんだ」
「私は言われてやってるだけよ」
「言われたことを従順にこなすような素直な人間が世界から消えたら、世界の非合法な麻薬の流通量は半分以上減るだろうさ」
「ならどうしろって言うの!」
「俺の入院費を払った人間の名前を教えてくれ」
「個人情報よ、それに」看護師は一度唇を舐めた。「とにかく、言えないわ」
「心配要らない。俺も情報を払う、君に、君が不利にならない為の情報を」 ケヴィンは笑顔を浮かべた。最愛の存在を頭に思い浮かべながら。「君の知りたいことのいくつかについては、俺の専門分野だ。例えばあの病棟の盗聴器の数と場所、それらの弄り方。それからそうだな、バックヤードPCのコントロールシステムの修理方法とか」
看護師は浅い呼吸をしていた。だが顔色はそれ以上悪くならなかった。
ケヴィンの前髪から垂れた水滴が彼女の胸元へ落ちた。思い出したような塩素の匂いが、彼女を正気に戻したようだった。
「……二つ教えて」と、看護師は言った。「パソコンの修理方法と、それから、最近コンセントの取り付け口ががたつくから、それの直し方を」
「明日にも教える」
「ティア・サンテゴよ」
言ってから、看護師は眉を浮かべた当惑ぎみのケヴィンに微笑みかけた。「これは私の名前。二つ尋ねるのだから、私からも情報は二つ。そうあるべきでしょ」
「君のスリーサイズが知りたかった」
「数字で知るよりもっと良い方法があるわ」
看護師がゆっくりとケヴィンの肩に顔を埋めた。剥き出しの濡れた背中に細い腕が回る。体温はケヴィンのほうが僅かに高かった。それが面白かったのか、小さく笑う声がした。
「イゼット・ウィンター」
囁くような声だった。
が、それは一言一句擦れずにケヴィンの耳に届いた。
「領収書は別人の名前で切っていたけど、受付に来た彼の顔をテレビで見たことがあった」
「……ウィンター?」
「有名なチェリストよ、彼もクイーンズレコードから何枚もCDを出してる、少し前まではよくテレビにも……」
女の唇が動いているが、音は聞こえなかった。素の色だろうローズとベージュの中間色の唇は湿っていて、表面には艶があった。
こんな状況でなければ、壁についたケヴィンの手は背中に回っていたかもしれない。上司への反骨心と野心に溢れた聡明な人は、ケヴィンの好みに合致している。何よりティア・サンテゴにとっても話の早い男は好みに合致している。二人はこの数分でもっと親しくなることができた。
だが現実問題として、二人はすぐに別れた。女は家路につき、男はプールサイドに取り残された。
男は着替えを終えている。既に運動後の熱も冷めきった濡れた首筋に、開いた携帯のブルーライトが反射している。
「A、B、C……H……」
ケヴィンは携帯に登録している電話帳のデータを巡った。画面を指でスワイプする。
「I」
目的の名前はすぐに見つかった。
“Izzet・Winter“
ケヴィンの携帯に登録されているデータで、番号とメールアドレスが揃っている人物はそう多くはない。大概電話番号かアドレスだけだ。ましてや誕生日まで登録されているのは、この一人だけだった。だがそれも当然のことだ。
チェロの弦を震わせる白い指先を思い出す。それがこの携帯の画面を滑った学生時代を思い出す。
ケヴィンの携帯に誕生日を登録したのは、イゼット・ウィンターその人だった。女のように長い、女以上に美しいブロンドの細い髪をした男。
透き通ったヘーゼルの瞳を持つ——反骨心と野心に溢れた聡明な男。
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