第3話 二人目
ドミトリ・カデシュは話の早い男だった。お互い対面の席について、ほとんど同じ高さに視線を揃えても決して合うことのない目はもしかするとケヴィンの頭蓋骨をすり抜けて数秒後の未来を見ているのかも知れなかった。
簡単な確認事項を、それはケヴィンの記憶喪失のことがほとんどだが、行った後、昼時だというのに個室のカーテンが引かれたままだったことに気づいて席を立った時、ケヴィンは先ほどまでドミトリが見ていたのが、たった今席を立ったケヴィンだったのではないかと思った。
カーテンを開き、窓も開ける。氷色の高い空に、病院前のリハビリステーションを兼ねた運動場や屋内プールが見える。
既に十月も半ばだというのに、プールには黄色や赤の派手な水泳帽が二十五メートルのレーンをゆっくりと行き交っていた。しかしそのほとんどがケヴィンの母親や父親の年齢だと思うと、散歩がてら足を運びたいとは思わなかった。
窓ガラスに映ったケヴィン自身と目が合う。痛みきってほとんど白に近い金髪に青い目。自分で何度も見たことのあるケヴィン・カタギリの顔だ。記憶と違うのは、車に撥ねられた時についたのだろう左の上瞼から走る小さな切り傷と、やけに深い目元の隈ぐらいか。
「何か面白いものでもありましたか?」
知らず知らず呆けていたケヴィンの背にドミトリの声がかかる。「あ、いい風が入るなあ」
「いや、ちょっとな」
ケヴィンは窓を離れ、もう一度ソファに座った。「街並みを見ていた」
「ああ……記憶にありましたか?」
「幸いなことに。セントラルの街は知っているし、周辺の区についても覚えている」
「では、本当にここ一年のことだけ忘れてしまったんですね」
「やはりそうらしい」
「ミランが荒れるわけだ」
ミラン。ケヴィンが口の中で音にせずその名前を転がす。苦い味がした。
ドミトリは記憶喪失の件をすでに聞かされていたことを差し引いても、昨夜の、より正確には既に今日になっていたが、ミランの反応よりずっとあっけらかんとしている。
ケヴィンにミラン・アーキテクトとドミトリ・カデシュについて教えてくれた雑誌によれば、この二人の付き合いはもう五年以上にもなる。早生まれのためにドミトリはミランより一つ年上だが、ほとんど同い年の二十四歳だ。
ミラン・アーキテクトについて知るならドミトリ・カデシュ以上の情報源は無いだろう。
——そんなことを考えながらも、ケヴィンの口は別の形で動いていた。
「ミラン・アーキテクトか、どうしてだ」
「ミランとはもう会いましたよね?」
「今日の午前一時前まで病室にいたよ。彼についても記憶がなくてな。ずっと見舞いに来てくれていたようなのに申し訳ないことをした」
「カタギリさんとは昨年春に開催された音楽祭からの付き合いになりますが、カタギリさんを専属にしようって言い出したのはミランですよ。当時の音楽祭にはISCさんや他の警備会社からもチームで警備に来て頂いてましたが、その時ミランがカタギリさんを特に気に入ったみたいで」
「それは光栄だ」
「とはいえこれはこっちの話なので、例え記憶があってもカタギリさんはご存知ないことですね」
「俺は君たちとは上手くやっていたか?」
「カタギリさんが本心で私たちをどう思っていたかはさておき、私たちはカタギリさんに良い印象を持っていますし、良い関係だったと思っています」
「やけに慎重な物言いだな」
「それは、ほら」ドミトリは腕を組んで眉を下げた。「色々とご迷惑をおかけすることもありましたから」
ドミトリの視線を初めてケヴィンは感じた。無意識にその位置に手を当てる。左目が隠れた。
「もしかしてこの左目の切り傷は、君たちの護衛中にトラブルがあったのかな?」
しかしケヴィンの問いかけをドミトリは否定した。
「いいえ。ただ、いつだったかな、確か五月か六月ぐらいだったと思います。仕事の移動で迎えに来たカタギリさんの目に、もうその傷があったんです。私がその傷はどうしたのかと聞いたら、カタギリさんは酔って転んだと言っていました」
「成程、この傷についちゃ深く考えないで良いようだ」
「あはは」
ケヴィンはもう一方の手に握ったままの林檎を弄びながら、しかし目元に当てた指は離さないでいた。そこだけ周りより新しく貼り直された皮膚は気持ち悪いほどつるつるしていて、縁がかすかに盛り上がっている。
これは切り傷だ。
酔って転んだとすれば転んだ際に顔を傷つけたことになる。床かカウンターか、体勢を崩して突っ込んだ——顔から?——腕や手には一つも傷がないのに?——そして目元を傷つけた。
頬や顎や鼻ではなく、目元だけ。顔の凹凸の中でも奥まって凹んでいく瞼から額にかけて。狙い澄ましたような急所にのみ。
まるで誰かが刃物を持ってケヴィンの目元を切りつけようとしたが、寸でのところでそれを躱した結果と言われたほうが納得できる。
しかし目を狙われるような状況なら、ただの酔った席での喧嘩では済まない。
「ケヴィンさん?」
「——なんだ」
「難しい顔をされてますね、体調がまだ優れないのではないですか」
「そんなことはない。寝過ぎて頭痛がするぐらいだ、今日も本来ならトップアーティストの君を一人で見舞いに来させるなんて論外だ」
「この病棟はそれなりに融通が利くから平気ですよ、それに私は結構外歩いててもバレませんし」
「君達との契約内容を確認しただが、俺は基本君たちの行動に随伴することになっている。債務不履行で訴えられたら俺の負けだ」
「訴えられたら、の話でしょう」
「正直、君たちがこの件でISCに新しい担当を要求しないのが不思議でならない。丁度オフシーズンを挟んでいる今なら引き継ぎ事項もない。俺の為の言い訳じゃないが、契約を見直すなら今が一番良い」
ドミトリはまた何処を見ているか判然としない優しい目に戻っていた。
「さっき私があなたをなんて呼んだか覚えてます?」
「突然ファーストネームで呼んだな」ケヴィンはソファの背もたれに深く沈んだ。「構わない、それはなんら問題じゃない」
「林檎」
「林檎?」
「林檎を選ぶと思っていました」
ドミトリが人差し指でケヴィンの手にある赤い果物を示した。そしてその指を畳むと、ゆっくりと、精密な部品を組み合わせるように両手の同じ指先どうしを合わせた。
「あなたはアップルパイが好きです」
「小学校のドリルにありそうな例文だな、俺は何語に訳せばいいんだ?」
「セントラルの目抜き通りにある三角形のケーキ屋で、一つ四百五十円のアップルパイがあります。あなたの大好物です、シナモンシュガーがたっぷりかけられている」
「何が言いたい」
「私とあなたは二人きりでそのケーキ屋に行ったことがあります、今年の、梅雨がまだ明けきらない時期に」
「微笑ましいエピソードだ、心が温まるよ。記憶にないが」
「その後に私のマンションに行きました」
ケヴィンの指先が林檎の表面にかすかにめり込んだ。赤い表面の皮に亀裂が入り、果汁が滲む。
「その後、あなたが再び私のマンションのドアを開けるのは翌朝の六時です。さて私たちは、ケーキ屋の帰りドアを開けて、次にドアが開く翌日の朝まで何をしていたでしょうか?」
悪魔の問いかけだ、とケヴィンは思った。顧客でなければ問答無用で襟首を掴んでいたかも知れない。しかし顔は殴らないだろう。
「映画鑑賞とか?」
「それもしましたね」
「俺はソファで寝た」
「初めのうちはね」
両手で作った三角形の奥にドミトリの口元が見えた。緩やかにたわんだ唇が今にも開き、その奥からどんな言葉が飛び出てくるかを考えるのは、まるで夜眠っていた子供がふと目を覚まして、締め損ねたクロゼットの隙間の奥に何がいるかを考えるほど恐ろしいことだった。
「安心してください、何が起きていても双方同意の上ですから」
ドミトリ・カデシュはあくまで悪魔のように優しく宥めるだけだった。
故にケヴィン・カタギリもあくまで人間らしく全てを疑ってかかるだけだ。
「双方同意があればなんでもして良いって訳じゃないぞ」
「とっくに未成年じゃないので、そのあたりはどうも」
「君は語文のドリルより道徳のテキストを暗記したほうが良さそうだ」
「面白いですね」
「君、B級映画とか好きそうだな」
「ええ」ドミトリは少女のように顔を綻ばせた。「あなたのコテージに山積みにされているDVDもB級映画しかありませんからね。サメ人間ウイルスが世界中に蔓延するパニック映画が一番好きです」
皮肉一つにつき嫌味一つが往来する。フェアな会話だ、とケヴィンは思った。そういう意味ではドミトリ・カデシュはケヴィンの好みの一つに当てはまっている。
「端的に聞くが、俺たちの関係は?」
「その質問をされる時点で——」
そこでドミトリがかぶりを振った。そして子供のように首を傾げた。
微妙な顔の動きに、左頬の黒子の配置がずれる。
「私たちは恋人同士だったんですよ」
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