第2話 ISC
リハビリの結果は散々だと言わざるを得ない。
ケヴィンの恋人を名乗るミラン・アーキテクトについては、病院の売店にあるごく一般的なファッション雑誌が全てを教えてくれた。
666(スリーシックス)というロックバンドのボーカルであること、主に作詞を担当していること。バンド結成当初は長い間地下やインターネット上で個人活動していたが、クイーンズ・レコードにスカウトされファーストシングルを発売すると、それがオープニングに使われたドラマの注目度と相まって一気に人気を獲得し、今では若年層を中心に爆発的な人気を保持している。その儚げながら貧弱さとは無縁の独特の風貌も相まって今ではモデルやドラマにも出演し、活動の幅は音楽に留まらない。
言われてみればどこかで見たことがある、という程度の既視感をケヴィンは感じた。しかしそれが自分の恋人としての既視感なのか、有名さ故に一視聴者としての既視感なのかまでは区別することはできなかった。
666自体はミランともう一人、ドミトリ・カデシュというメンバーがいる。こちらはミランと対をなすような黒髪の男で、優しそうな目元は優しすぎて何処を見ているのかわからない。左頬に縦に並んだ黒子が印象的で、これが油性ペンで描かれたものでないなら、その見事な直線上の配置にファンがミランと同様、ドミトリの風貌に神秘的な何かを見出そうとするのは無理からぬことだった。
ミランは明け方に病室を出て行った。「最愛の恋人の意識が戻って安心した」恋人にしては淡白なほど呆気なく、ただ自分達は恋人だったという爆弾だけ落として、粉々になった病室を後にした。
「今冬のドラマの打ち合わせがあるから、もう行かなきゃならない。また来る」
そのドラマについても安価なファッション雑誌は網羅していた。元よりそのドラマの特集が組まれていたのだから当然のことでもあった。
既にワンシーズン放映済みの超常現象や都市伝説をモチーフにした人気ドラマのセカンドシーズンに666の二人がそれぞれ超常現象側で出演するらしい。
打ち合わせ自体はビデオミーティングで行われるため、警備の必要は無しと聞いている。
とはいえ打ち合わせ当日の明け方まで病室に居座って、睡眠不足で仕事に出向く方が問題ではないのかとケヴィンは思ったが、本人の振る舞いによる責任にまで口を出すつもりはなかった。
人通りの少ない病棟を雑誌を捲りながら歩いていると、上階へ向かうエレベーターホールのところに物々しいまでの黒服が二人立っている。
屋内だというのにつば付きの帽子を目深に被った男と、もう一人はあどけない表情をした女だった。さして小柄であるわけではないが、隣にいる男が二メートル以上あるせいでまるで少女のように見える。
「カタギリ」
少女のような唇が低いアルトの声でそう言った。
「キルヒャー」ケヴィンの口は考えるより先にその名前を呼んでいた。「誰かの見舞いか?」
「君の見舞いだよ。頭を打ってバカになったんだね、その割にまだ二本足で歩いているのは立派なことだけれど」
「四本足で歩くようになったら首輪つけて飼ってくれ」
「子犬はシーシャで十分だよ、弱い犬は餌の無駄だし、君は愛玩用にしても可愛くない」
「散歩は自分で行くし、粗相もしないが」
「私は可愛くもないのに撫でられようと寄ってくる犬が一番嫌い、分別がないからね」
エレベータが一階まで下りてくる。開いたドアの向こうに立っていた看護師二人はまず目の前に岸壁の如く聳え立つシーシャに怯え、その隣のキルヒャーを見つけると、おそらくはどこぞの令嬢と屈強な護衛と判断して途端に安心したようだった。
そそくさとすれ違って降りていった看護師たちと入れ違いに黒服二人と入院着のケヴィンが乗り込む。シーシャがいて窮屈だと思わないエレベータは世界を探してもそうはない。
「記憶喪失だって?」
キルヒャーは閉じたエレベータのドアを向いたまま言った。病院のそれにしてはやや過剰なまでに磨き抜かれたそれは鏡のようにキルヒャーの無表情を映している。
ともすれば天井と壁の数だけキルヒャーから睨まれているような気分を味わう。ケヴィンは手元の雑誌を捲りながら「ああ」と答えた。
「ISCは何の略でしょう?」
「アイアン・セキュリティ・カンパニー」
「我が社の理念は?」
「お客様の為に我が身を鉄としてお守りします」
「もう一つ」
「契約違反に対してはお客様であろうと鉄のように追求します」
「いいね」
「早期離職者の募集に来たのか?」
「まさか。ISCはご愛顧を受けて業績を伸ばしているよ。君は上級派遣員の一人だし、手足の一本ぐらいどこかに落としても働いてもらうから安心して」
エレベータは一切の圧力を感じさせないまま最上階へ到着した。優雅なベルと共にドアが開く。キルヒャーが真っ先に出た。ケヴィンがその後に続き、シーシャが最後に音もなく下りる。
静まり返った通路を見渡し、キルヒャーはちっとも感動していない口調で「階ごと貸し切っているの? 流石だね」と言った。しかしキルヒャーは警備部門にいた頃も、人事部門のトップになった今でも、春夏秋冬感動とは無縁の発声だった。
「嫌味はよせ。俺も知らないうちに担ぎ込まれていたんだ」
病室へ戻ると、昨日目を覚ました際には一般的な個室とばかり思っていた部屋の壁が移動式で、壁を取り払った全貌は二倍以上の広さがあった。
そして患者用のベッドや小さな流し場、棚とは逆の方に広々と置かれたソファやテーブルは完全に来賓用のそれであり、患者が寛ぐためのフットスツールまで転がっている。
キルヒャーがソファに座ると、シーシャは背もたれの後ろへ立った。ケヴィンはキルヒャーの向かいに座った。
「君が何かクイーンズレコードの良くない秘密でも知ってしまったのかと心配したんだけれど、これは単にお客様からのご厚意ということで良さそうだね」
「俺を轢いた車について調べてるのか?」
「調べる理由はないな」キルヒャーは穏やかに言った。「それは警察の仕事だよ」
「午前中にその警察から聞いたが、結果から言えば犯人は捕まっていないし直接の目撃者もいない。フロスト区の道路に転がっていた俺をトラックの運転手が見つけて通報したきりで、有力な証拠が無いそうだ。唯一タイヤ痕と俺の靴底についていた塗料からペルシアンだということだけ分かっている」
警察が訪ねた際に見せられた高級外車の画像はインターネットでも簡単に見ることができる。シーシャが音もなく取り出した携帯で検索をかけ、画面をキルヒャーに見せる。
キルヒャーは画面に映る純黒の車体を眺め「へえ」と気の無いため息をついた。
「すごいね、ダンダリオス社の高級外車を轢き逃げに使う人がいるんだ」
「俺もそう思って何かやらかしたのかと疑ってる」
「でも肝心のところが記憶に無いと」
「俺が記憶喪失なのは医学が証明してる。反応検査のペーパー読むか?」
「君のことは疑ってないよ。私は採算が取れればそれでいい。君がもし使い物にならなくなったら、その分の補填の為に警察にもっと協力するけど、君は元気だ。666の二人は君の入院中の護衛は必要としていなかったから債務不履行は訴えられていないし、そして君の医療費はもう支払われている。ISCはこの件でひとつもマイナスを出してない」
「労働組合がやっと俺に労災認定を出してくれたか。感激したよ」
ケヴィンの冗談をキルヒャーは無視した。
無視して、ケヴィンの冗談の内側にある質問に答える——一体誰が入院費を支払ったのか?
「個人名までは聞けなかったな。逆に言えば、口止め料含めて個人が支払ったようだよ。クイーンズレコードでもなく、666の二人でもないらしい」
ケヴィンは眉を顰めた。セントラルの一等地に立つ病院の、しかも正面玄関とは別個の入り口を持つ入院棟の最上階にかかる個室の入院費は決して安くないだろう。てっきりクイーンズレコードの口利きで放り込まれ、後々ISCに請求が来るものだと、ケヴィンとキルヒャーの予想はその点で一致し、そして裏切られた。
「だから今日は素直なお見舞いに来たんだ」
そう言ってキルヒャーは上半身を倒し、重ねて両手の甲に顎を乗せて微笑んだ。
彼女を知らない人が見れば動揺し、好意的な勘違いを——つまり彼女が自分に気があるのではないかなどという馬鹿げた勘違いを——しただろう。
そして少なからず彼女を知る者なら、これまで生きてきた人生における些細な失敗から全ての黒歴史を思い出し、それが今まさに自分の首を絞めるような幻覚を見る。
つまり自分の人生の一分一秒を思い返し、キルヒャー・ミハイレからの人事評価にマイナスをつけるような些細な問題を探す。例えそれがISC入社前の黒歴史だとしても。
幸いと言うべきか、ケヴィンはキルヒャーという人物のことははっきりと覚えていた。他でもないケヴィンの教育係でもあった彼女を前に見る幻覚はあらかた全て見尽くしている。
「君は自分で散歩に行けると言ったけれど、君はその自分で行った散歩の途中で轢き逃げにあったんだ。職務時間外の振る舞いに口を出すのは私も本意じゃないよ、でもその所為で今後ISCに対する印象を悪くするのは頂けないね。特に君の相手は大手だから」
「肝に銘じる」
「次同じことがあったら肝臓を取っちゃおうか。肝に銘じて治らないなら、そんな肝はいらないよね」
「その手術代は誰が出すんだ?」
「私が出して、君の肝臓を売ったお金で補填するよ」
ケヴィンが黙ると、キルヒャーは背筋を直した。背後霊のように立っているシーシャと体の中央線がぴたりと一致する。
「まあ今回はお客様もオフシーズンだったから、完全に君のプライベートな事故ということで先方は理解している。説教はここまでにしようか。私たちもこれから支所を回らなきゃいけないんだ」
「キルヒャー」
ソファから立ったキルヒャーにケヴィンはすかさず尋ねた。「俺は仕事を続けるのか?」
「そうだよ?」キルヒャーは不思議そうに言った。
「少なくとも今の顧客のことを俺は忘れてるんだぞ」
「それが?」
ますます不思議そうなキルヒャーに、ケヴィンは質問を変えた。
「相手は担当替えを申し出てないのか?」
「無いね。契約期間の満了がまだだし、君は実績があるからよっぽど信頼されているんだね。666の担当が回ってきたのも、その前の、えーと誰だったかな、もうテレビには出なくなったけど、あのチェリストの担当をやりきったからでしょう。あれでクイーンズレコードは君の名前を覚えたんだろうね」
「今期奴らが出るドラマの撮影が始まったら、もう替えられないぞ」
「だから、替えなくていいんだよ。先方がそう言ってるのに、どうしたの?」
どうしたのかと問われればケヴィンにそれ以上の反論はない。
どうもしない、か、その顧客と自分が恋人同士かもしれない、とどちらを告げたところで状況は何も変わらない。ISCの約束する事業において顧客と恋愛関係にならないとする誓約書はない。ISCが責任を負うのは、こちらに帰責すべき事情によって顧客が害された場合のみだ。
契約書に定めのない清廉潔癖なまでのモラルなど、少なくとも今は雑談の話題にもならない。
「話は終わり? 業務上の相談事なら社内専用ページから担当部署にメールするといい。産業医は土日祝と水曜日が定休日だから、即日の相談ならそれ以外の曜日にね」
言うなり、キルヒャーはシーシャを引き連れて病室を出ていった。去り際になってようやくシーシャが上着の懐から果物で一杯のバスケットをテーブルへ置いていった。
これだけの物体を一体どこに隠していたのかと聞きたくなったが、ケヴィンはそれを尋ねなかった。冗談でもシーシャの上着の襟を開こうものなら、折角の幸運で目覚めた五体満足が四体不満足にされる恐れがあったからだ。
「あれ?」
バスケットの果物に手を伸ばそうとした時、不意に外へ出たキルヒャーの声がした。「今日は。お見舞いですか? 我々は別件の用でお暇しなければなりませんが、カタギリなら中におりますので、どうかごゆっくり」
二人分の足音が遠ざかっていく。入れ違いにベッドがある方の扉が横に滑り、黒い頭が覗いた。
人の良さそうな男がいかにも着ていそうなベージュのトレンチコートに柔らかそうなオーバサイズのシャツ、薄い色のジーンズにハイカットのスニーカー。
鴉の羽を飾りつけたような特徴的な毛先が混じり合った切りっぱなしの黒髪。
左目の下に二つ、一直線上に並んだ黒子。
「カタギリさん」
と、ドミトリ・カデシュがデフォルトの笑顔を投げかけてくる。「ミランから目が覚めたと聞いたのでお見舞いに来ました」
声も顔もケヴィンを向いているのに、視線が掠りもしない。ケヴィンは聞こえないようにため息をついて確認もせず指に触れた果物を手に取った。
「ドミトリ・カデシュか?」
そう言って立ち上がる。「俺についての話は聞いているかな」
言いながら自分の右手を見下ろす。ケヴィンの手の中には赤い林檎があった。
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