セーニョまで戻れ

@sksng

第1話 天使か悪魔か

 自分なら絶対に選ばない色の半袖シャツを着ている。

 ケヴィン・カタギリが目を覚ましてまず思ったことはそれだった。

 白く硬いシーツと布団が腹の辺りまでかけられているのが見える。仰向けに寝かされている。胸元には淡いブルーのパステルカラーな薄っぺらいシャツ。V字に深く切り込まれた襟元からは赤と青のコードが這い出て枕元の機械と繋がっている——時限爆弾の解除コードでは無いようで安心した。

 いくらか絞られてはいたが眩しく光をぶちまける天井の蛍光灯を睨む。天井の四隅が見える。そう広くない部屋だ。なんの匂いも感じない。頭がぼんやりとして、何を考えるにも何をしようにも痺れたように全てがにぶい。

 ベッドの柵が見えて、それを支えに身を起こそうと手を伸ばした。

 だが握った時、手のひらに遅れて感じたのは冷たくも柔らかさのあるものだった。

 それは人の手だった。

 その時になってようやくケヴィンは自分が寝かされているベッドのすぐそばで椅子に座っている存在に気づいた。

 その人物は今し方まで何かを考え込んでいたのか、うたた寝をしていたのか、俯いて硬く目を閉じていた。その際ベッドの手すりに置いていた手に、ケヴィンの手がぶつかった。

 弾かれたように顔を上げたその人物は大きく見開かれた目をケヴィンに晒した。

 男だ、とケヴィンが思った。俯いているときはまだ幼い少年に見えたが、こうして顔を見ると二十代の半ば——自分より歳下だろう。ブロンドの髪は鳥の羽のような癖が毛先のあちこちについていて、端整な顔立ちと相まって天使に片足を突っ込んだような奇妙な神聖さを感じさせる。黒い襟付きのパーカーすら、いっそ人間に擬態するためのコスプレじみて見えた。

「カタギリ、」

 と、その天使男が呻くように呼んだ。「目が覚めたのか?」

 天使男が動揺しているのは明らかだった。椅子を立ってケヴィンを真上から見下ろすように体を乗り出す。開いたままの口が震えている。蛍光灯の光が遮られると、ケヴィンは細めていた目をようやく一杯に開くことができた。

 自分を見下ろす男の瞳に、色が抜けてくすんだ金髪の男が映っていた。上瞼にかかる長さの前髪とアイスブルーの目まで記憶の通りだった。それは間違いなく自分だ。ケヴィン・カタギリという男だ。

 ただ、自分の顔が映る鏡の名前が全くわからない。

「誰だ……」

 ケヴィンは辛うじてそう言った。喉が渇いていた。かすかにひりついて痛む。「誰だ?」

 天使男の喉仏が大きく上下した。驚きに見開いた目は髪と似た色をしていた。灰白色のそれに光輪のような瞳孔がはっきりと見える。

「俺を覚えてない?」

「だから、誰だと聞いてるんだ」

「あなたの名前は?」

 天使男がケヴィンの頭の壁へ手をついた。それがベッドの頭側に設置された患者のネームプレートを隠す動作だとケヴィンはすぐに察した。

 名前を聞かれたものの答えるべきかどうか悩んだのは数秒だった。ただでさえ目と鼻の先まで迫った天使は寿命を迎えるはずだった人間が目を覚ましたことに慌てているように見えた。

「ケヴィン——ケヴィン・カタギリだ」

 天使男はそれでもじっとケヴィンの顔を睨みつけていたが、ケヴィンが軽く咳き込むと離れた。それと同時に頭上のネームプレートから男の手が退けられる。ケヴィンが少し仰反るようにして見ると、逆さまになった視界にも明らかに“Kevin KATAGIRI”という文字が細いマーカーで記されていた。

 天使男はベッドから数メートル離れ、部屋に備えつきの棚から水入りのペットボトルを取り出した。それをケヴィンに渡す。

「水を飲んで」

 そしてケヴィンが受け取るなり、空になったその手でベッドの枕側の柵に吊るされたナースコールを乱暴にもぎ取る。「——ナースステーション? ケヴィン・カタギリの病室です、カタギリが意識を取り戻しました」

 

 ケヴィンは肘をついてどうにか身を起こし、ペットボトルから水を飲んだ。喉も乾いていたしボトルを握る手も乾いていた。右手の親指には直ったばかりらしいささくれの痕が残っていた。爪の表面が白く乾いている。

 水を二口飲む暇もなく、部屋のドアをスライドさせて白衣の医者と看護師がそれぞれ入ってきた。

「カタギリさん」頭に髪の毛ひとつない細長い医師が落ち着いた声で言った。縁の太い眼鏡をかけている。「こんにちは、初めまして。私は外科のアクター医師です」そう言ってにこやかに握手を求めた。

 ケヴィンはペットボトルを握っていない方の手で医師の手を握った。互いに骨張って乾いた握手だった。

「目覚めたばかりで混乱されているでしょうが、少しバイタルを確認させてください」

「もう一度横になって」医師の後ろから看護師が歩み出る。ケヴィンの手からそっとペットボトルを取り上げた。

 ケヴィンが訳もわからずブルネットの看護師にベッドへ押し倒されている間に、医師はケヴィンの瞼をひっくり返したり、枕元の器材をいくつか弄り回していた。

 ぼんやりとなされるがままにしていると、ケヴィンはいつまでたっても自分の両腕をベッドへ押し付けた看護師が離れないことに気づいた。視線を向けると、看護師は瞬きと区別するのが難しそうなほど素早くウインクをした。

「ごめんなさいね、もう少しじっとして」

「……全然構いませんよ」

 囁くようにひそひそとそんなことを言い交わす。だがすぐに医師が仕事を終えたらしく、看護師ははにかみ笑顔を浮かべたまま離れていった。

「身体的な不調はなさそうですね、明日改めて検査を受けていただきますが。ところで」医師は看護師が窓際に置いていたバインダーを拾い上げた。「何故自分が此処にいるか、覚えていますか?」

「此処は病院で間違いない?」

「セントラル総合病院です、貴方は二日ほど前に車に轢かれて救急車で当院へ運ばれてきました」

「車に轢かれた?」ケヴィンは首を振った。「覚えていない」

「事故の衝撃で覚えていないことはよくあります。ただ問題は、そのショックの影響が致命的なものかどうかです」

 医師は落ち着き払って、その溢れんばかりの落ち着きを分け与えるように口元で弧を描いた。

「まず、ご自身のお名前は覚えてらっしゃいますよね? ケヴィン・カタギリさん」

「ああ」

「お仕事は?」

「仕事は」ケヴィンは唾液を飲んだ。「民間の警備会社だ、ISCの会社員」

「素晴らしい」医師はにっこりと笑った。「国際的な警備会社です。666(スリーシックス)は娘もその友達も大ファンでね、その専任ボディガードとこんな形でもお会いできるのは光栄です」

「スリーシックス?」

 ケヴィンの怪訝そうな声に医師は初めて笑顔を固まらせた。そしてバインダーの表面に滑らせていたペンを思い出したようにノックする。先端から突き出た黒いインクまみれの小さなボールが素早く何かを書きつけたようだった。

「“6“が三つ並んでスリーシックス、ご存知でない?」

「暗号か?」

「そちらの男性がどなたかも、ご存知ない?」

 医師がペンを離し、揃えた指先で丁重にケヴィンの視線を促す。その手つきの先にいるのは天使男だった。

 天使男はケヴィンを見ていなかった。ただ医師たちとはベッドを挟んで逆側に立ち、一点を見つめている——どこか居づらそうにしている看護師を見ているようだった。

 その目がぐるりと動いてケヴィンを見た。白のカラーコンタクトでもしているのか、そこだけ際立った灰色の瞳孔に見据えられると、いよいよ天使というより死人を迎えにきた死神にも思われる。ともかく人間離れしたような印象を全身から放っている。

「存じ上げないな」

 素直にケヴィンがそう言うと、医師はやや大袈裟に肩をすくめた。「成程」とちっとも納得してなさそうな声で言った。「まあ、その辺りは私よりもSNSや雑誌に聞いた方が早いでしょう、落ち着いたらリハビリがてら売店へでも行くといいかも知れません。それが億劫なら……」

 医師はちらっと天使男のほうを見たが、小さく咳払いをしてその素振りに意味は無かったことにした。


 それから医師は引き続きいくつかの質問をケヴィンに投げかけたが、ケヴィンはほとんどの質問に正解した。自分の名前も住所も仕事も、今いる場所、地名、ISCに就職するまで、就職してからの来歴も覚えている。

 二十八年にも及ぶ人生の中で、ケヴィンは二十六年間の記憶を保っていた。

 ケヴィンが答えられないのは、自分が救急車でこの病院に運ばれる原因となった三日前の事故とそこからおよそ一年半ほど前までの記憶だった。

 記憶の境目が分かったのは、すぐそばにいる天使男とは約一年半前から仕事上で密接な面識があるはずであるのに、ケヴィンはそれに思い当たる節が全くなかった。

「記憶喪失ですね」

 医師はケヴィンが淡々と答えるのに同調し、あくまで事実を率直に告げた。「事故のショックでしょう。そうでなくとも心身が強烈なストレスを受けて記憶を一時的に塞いでしまうのはよくあることです。カタギリさんの場合は、全身を強く打った物理的な要因によるものと思われます、一時的なものか、今後ずっと記憶が戻らないかはさておき」

「致命的な記憶は失ってない」ケヴィンが端的に付け加えた。

「その通り。今この時点で悲観的になる理由はありません、あくまで医師としては貴方の意識が戻ったことを純粋に喜ぶことができる」

「どうも」

 もう一度握手を求めてきた医師に、ケヴィンは呆れつつもまた手を差し出した。

「貴方を轢いた車ですが、まだ捕まっていないようです。警察からは貴方が目を覚ましたら話を聞きたいと言われていますが、どうしますか? 病院としては拒むこともできます、しかしできても数日引き延ばす程度ですが」

「明日にでも話を聞こう」ケヴィンははっきりと言った。「誰よりも俺が話を聞きたい」

「では早々にお出でいただくようにします。その前に精密検査の必要もありますから、今夜はゆっくりとお休みください」

 そこでようやくケヴィンは今が夜であることを知った。病室の窓はカーテンが引かれていて、外の様子は見えない。

 医師と看護師が病室を出ていくと、病室は静まり返った。

「で、そちらは誰なんだ?」

 ケヴィンが首を捻り、終始黙っていた天使男に尋ねた。「俺の家族じゃないし、ここ半年でISCに入社した俺の後輩にしては細すぎる」

「ISCに入るには体重の規定でもあるのか?」

「興奮したシベリアンハスキーと片足で相撲が取れるぐらいの体格は必要だな」

 天使男は初めてそこで微笑みのようなものを浮かべた。ごくわずかな口元だけの動きだったが。

「ミラン」と天使男は名乗った。「ミラン・アーキテクト。あなたの契約相手だ」

 契約、とぼんやりした頭でケヴィンが復唱する。ミランははじめ座っていた椅子にもう一度腰掛けた。細いスチールの骨組みでできた椅子が甲高く軋む。

「俺の護衛相手か」

「そういうことになる」

「顧客がなんで病室にいる? 俺は寝言で秘密情報でも漏らしたか?」

 こういう場合に病室にいるべきは家族か恋人だろう。しかしケヴィンの両親と兄弟は遠方に暮らしているし、車に轢かれたからと言って命に別状がないと分かっていればわざわざ足を運ばないだろう。ケヴィンとて逆の立場ならそうしただろう。それほどまでに離れているし、カタギリに医者は一人もいない。

「あなたが車に轢かれたんだ、俺が病室にいるのは当然だろう」

 ミランが膝に頬杖をついた。白鳥の羽のような髪の毛先が顔の輪郭にかかる。モデルか俳優だな、とケヴィンは当たりをつけた。スリーシックスという名前が何を指すのかは分からないが、医師の話だとそれなりに有名どころであることは明白だった。

「お前が俺を轢いたとかいうオチか?」

「違う」ミランが切って捨てた。「もう一つの可能性の方だ」 

「冗談はよせ」

「冗談? 今何時だと思ってる、もう零時を回った。こんな時間に病室にいるのが、それが許されるのが患者のどういう相手かは分かるはずだ」

「若い頃は誰でも夜更かしぐらいする」

「カタギリ」

 聞き分けのない子供を叱るような口調だった。しかも理知的に、絶対的な正しさをもって解答を教える。

 天使のような男はそのまま悪魔のようなことを言った。

「あなたと俺は恋人同士なんだ」

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