第30話 アスタアロの思い出 その1


 初めて、アスタロト様の本心にふれられた。


こんな状況でなければ、どんなにか嬉しかっただろう。


きっと、わたしはアスタロト様に抱き着いて、精一杯の喜びを示していたに違いない。


アスタロト様は、落ち着きを取り戻されていた。


そして、優しくマリーと呼びかけてくれた。


「はい」


我知らず、大きな声が出た。


でも、その声はアスタロト様の耳に届くことはなかった。


けれど、アスタロト様が差し出してくれた手は、見えない私に向かってまっすぐに伸ばされていた。


わたしのことが、見えているのか、感じているのかは、わからない。


それでも、わたしはその手に向かって手を伸ばした。


やはり、触れることはできなかった。


アスタロト様の手は、力なくだらりと落ちた。


うつむいた姿は、絹糸のよな光沢の漆黒の髪に顔をおおわれ、わたしからアスタロト様の表情を見ることはできない。


今まで、いくども出会い、ともに過ごしてきた時間の中ですら、アスタロト様の悲嘆ひたんにくれくる姿は、見たことがなかった。


「悪魔の中でも屈指くっしと恐れられた我も、ヤキがまわったようだ。……仕方がないんだ。マリーを悪魔に転身させることは、もう、二度としないと決めたのだ。マリー、君を失ったあの時に……」


わたしを失った?


「マリー覚えてはいないだろう。あの時のことを……」


アスタロト様は、こちらに顔を向けた。


わたしの顔の前で、パチンと指をならした。


天地が数回グルんグルんと回った。


回り終わると空には、三日月が煌々こうこうとてり輝いている。


わたしは、もう一人のわたしを見ていた。


見つめているわたしの視線の先には、かつてのわたしが、あの忌まわしいテラスの手すりにつかまり、ぶら下がっていた。


わたしは、アスタロト様が初めて見せてくれた力によって、前世いつかのわたしを見ていた。






 またここからなのかと悔しい気持ちもあったが、今はそれどころではない!


初夜の部屋のテラスの外からちゅうぶらりんな状態で、手すりにかろうじてつかまっている。


「アハハハハハ!頑張るねマリー!」


 今回のオイジュス王太子も、新妻の危機に実に楽しそうな様子だ。


理由は、わかっている。


わたしが死ねば、へスぺリデス家の遺産相続権を手に入れることができる。


「いつまで持つかな~。早いと拍子抜けしちゃうよ~。ハハハハハ」


無駄に豪華な大理石製のつくりが呪わしい。


夜露に濡れて、滑りやすいのだ。


力を込めて手すりを握ろうとするそばから滑ってしまい、うまく力が入らない。


「たっ、助けて!オイジュス様!!」


ああ、とうとうあいつに助けを求めてしまった。


最悪だわ!!


「お困りですね。お嬢さん!」


「!!!」


わたしもオイジュスも、思わず声がする方を見た。


下から深いバリトンボイスが、聞こえてきた。


……なんで?


「誰だ!!お前!!」


「大声を出すと人が来るぞ王太子。新妻を殺そうとしている現場をみられて困るのは、お前だろう?」


それはそう!


でも、確かにあなたは誰なの?


「お嬢さん思い切って飛んでごらん。我が必ずうけとめてみせるから」


手をスっと伸ばして声の主は、わたしの真下にかまえた。


「だめです。そこは、ネグリジェドレスの中が見えてしまいます……」


「おおっと失礼。マリー、でも、今は」


「それどころじゃないのは、わかっていますが……気になってしまうのです」


わたしは、消え入りそうな声で説明した。


助けてくれる恩人に破廉恥な人というレッテルを貼ってしまったようで、申し訳ない気持ちだった。


「ああ、わかった。気になるならそっぽを向いているよ」


「そしたら受けとめられないのでは?」


「大丈夫だ。ふざけてないでさっさと落ちてきなさい。悪魔のアスタロト侯爵の万能なる力を信じなさい」


「なに!!まさか!?オイっ、待てマリー!!」


オイジュスがわたしの腕を掴もうと手を伸ばした瞬間、わたしは手すりから自らの意志で手を離した。


わたしは、初対面の悪魔の言うことを信じて、彼の腕の中に落ちていった。


フワリと体が浮き上がり、ゆっくり静かにアスタロトの腕にかかえられた。


「あっ、ありがとうございます」


「どういたしましてマリー。もしよかったら、わたしの城へご招待しよう」


「厚かましいお願いですが、ご厄介になりたいです!」


「では、もう会うことのない夫に、何か言うことはあるか?」


こちらをテラスの手すりから身を乗り出しているオイジュス王太子がぼんやりと見えている。


夫であった初恋の王太子に、さようならと手を振った。


「口もききたくないですが、淑女の礼儀として手を振りあいさつしましたが、見えたでしょうか?」


「ああ、たぶん。今夜は三日月が明るいからね」


その瞬間、わたしは、アスタロト様のなんらかのお力で見知らぬ立派なお城の一室にいた。



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