8
「そ、そんなのあなたの勝手でしょ!私はあなたの事知らないし!」
だが、はっと我に返る。
いけないいけない、うっかりしていると、ランのペースにのまれてしまいそうだ。
ランは詐欺師なのだ、本気の意味合いは、愛情ではなく、自分のノルマの為なのだと。
「…僕には、あなたしかいないんです」
しかし、ランも主張を曲げない。今は母の
「ちょ、」
子犬といっても、がたいは成人男性だ、純鈴の手なんて、ランの手にすっぽりと包まれてしまう。おまけに手を引こうとしても抜け出せない、ここで初めて、ランが男性であるという事を嫌でも感じさせられた。
「は、放して、」
「僕が、
「え、」
ランの声の雰囲気が変わった、純鈴は途端に抵抗を止めて顔を上げた。間近に迫る綺麗な顔に胸を高鳴らせたのは、ときめいたからではない、嫌な予感がしたからだ。
ランは、その表情から子犬を追い出し、急に大人な顔つきを見せた。顔や声は同じ筈なのに、まるで別人と会っているような感覚すらしてくる。感じたのは恐怖だろうか、純鈴はごくりと唾を飲み込んだ。
「数ヶ月後、この商店街は時谷のものになる、そうしたら、この店も立ち退くように言い渡されるでしょう。でも、僕と結婚したら、この店は守れます」
まるで、雷でも落ちたかのような衝撃だった。
ただの嫌がらせや結婚詐欺師だと思っていた時とは話が変わってくる、まるで、出会いの場面からやり直しているような感覚すらして、純鈴は頭が真っ白になった。
この商店街が、時谷のものになるなんて初耳だ。そうなったらこの店は、いよいよ自分の手ではどうにもならない事態になる。
「…あなたが、時谷の人間だっていう証拠は?」
純鈴は動揺して声を震わせながらも、そう尋ねた。
「…何を見せたら信じて貰えますか?写真?身分証?今ここで、時谷の社長に電話をしても構いませんよ」
純鈴の手を放し、ランはそう言いながら財布を取り出すと、写真やら免許証やら、手持ちで証明となりそうな物をカウンターの上に次々と並べ、そして最後にスマホを取り出した。躊躇う素振りも見せずに画面を操作する姿からは、本当に時谷の社長に電話をかけるつもりだろうと、純鈴に思わせた。
純鈴は咄嗟に、それを制した。それだけで十分だった、それ以上は、純鈴の気持ちが追いつかない。
「…こんな理由で結婚して、あなたは幸せなの?」
ぽつりと溢した言葉に、ランがスマホから視線を上げた。
もしランの言う事が本当だとして、そうすれば店は守られるかもしれないが、それでも、そんな交換条件のような結婚、呑める訳がなかった。いくら店の命運がかかっていようとも、好きでもない人と結婚なんて、純鈴には想像が出来なかった。だって、ずっと嫌々一緒にいる事になるのだ、破綻は目に見えているし、そんな人と結婚したって、ランだって不幸になるだけだ。
「…お断りします」
真っ直ぐと、ランの底の見えない瞳を睨みつけながら純鈴が言う。
こんな男に屈せずとも、店は自分が守ってみせる。
「…そうですか」
ランは暫し純鈴の表情を見つめていたが、不意に表情を緩めた。
「今日の所は、この辺で失礼します」
愛らしい微笑みを浮かべるランに、純鈴はいつの間にか強ばらせていた肩から力を抜いた。目の前の彼の雰囲気がまたがらりと変わり、子犬のような人懐こい様子に戻ったからだ。果たして、どちらが本当のランなのだろうか。
「僕は、時谷ラン。よろしくお願いしますね、純鈴さん」
にこりと微笑み、ランはもう一度純鈴の手に触れた。今度はとても優しく手を握られ、それから、純鈴の指先を掬うように持ち上げると、ランはそっと手を放していく。その仕草は、どこか知らない国の文化のようにも思え、純鈴はされるがまま、きょとんとランを見上げていた。それから、ランはカウンターの上を片付けると、どら焼の代金を支払い、微笑みを浮かべながら小さく会釈をして、あっという間に店を去っていった。
「…何だったの」
呆然とその背中を見送った純鈴は、まるで嵐が去ったようだと、脱力してカウンターの上に突っ伏した。
ランが時谷の人間なら、
一目惚れなんて、それでプロポーズなんて。改めて考えても真実味のない話だ、ランはそれでも純鈴に本気だというのか、それとも、純鈴に結婚を迫らなければならない理由が、何かあるのだろうか。
ランはまた来ると言った、適当に結婚相手を見繕うなら、純鈴でなくても良い筈だ。わざわざ純鈴でなくてはならない理由とは。
ランは一体、何を抱えているのだろう。
ぼんやり考え、はっとする。
どうあれ、純鈴には関係の無い事だ、もしかしたら本当に詐欺師かもしれないんだしと、ランの事は頭から追いやり、新しい高屋の価値を見出だそうと、純鈴は慌ただしく厨房に入っていくのだった。
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