6




ランとの出会いは、二週間程前に遡る。


ランは、ふらりと一人で高屋たかやにやって来た。珍しそうにきょろきょろと店内を見渡し、やがて純鈴すみれに目を止めると、柔らかく笑んで軽く会釈をした。その様子に、純鈴も愛想良く「いらっしゃいませ」と、頭を下げた。

この時もランの印象は、髪の毛がやや重たく感じられたが、爽やかな子犬系の青年といった具合で、純鈴もランの事を普通の客だと思っていた。いい人そうだし、しかも、数少ないお客さんである。


品数は限られているので、亡き義父の作った高屋のどら焼がどんなに美味しいか、純鈴は熱い思いを注ぎながら接客をしていたのだが、ふとランを見上げると、ランは商品に向けた目を柔らかに緩め、微笑みを浮かべていた。

それが、なんだか郷愁を感じているような表情に思え、純鈴は思わず熱弁をふるう口を止めた。


「あ…ごめんなさい、べらべらと」

「…いいえ、参考になりました。このどら焼を…五つ下さい」


ランは純鈴を気遣うように笑み、どら焼を注文してくれた。純鈴は飛び上がるように「ありがとうございます!」と頭を下げると、いそいそと紙袋を用意したのだが、袋詰めをしようとして、ふと、その手を止めた。


「…あの、違っていたらごめんなさい。もしかして、以前、この店に来た事がありましたか?」

「え?」

「あ、義父ちちのお客様だったのではと…」


純鈴は自分でそう言いながら、でもそれは無いかと、こっそり思い直していた。彼は自分より年下に見えるし、きょろきょろと店内を見渡しながら入って来た姿を思うと、この店に馴染みは無さそうだった。


では、何が彼をあんな表情にさせるのだろう。


「違いますよ」


思案していると、ランはそっと頬を緩め、純鈴と改めて向き直った。ランが少し背を丸めたので、純鈴と目線の高さが一緒になる。深く底の見えない黒い瞳だ、まっすぐに見つめられると、何だか落ち着かなくて、純鈴はうろうろと視線を彷徨わせた。

ランはそんな純鈴の様子を見つめ、それでも視線は外さず、真面目な表情でそっと口を開いた。



「あなたに一目惚れしました、結婚しましょう」

「……は?」



一瞬、思考が止まった。あまりに唐突で突拍子もない事だったので、ランが何を言ったのか、純鈴はすぐには理解が出来なかった。

純鈴がきょとんとしてランの顔に視線を戻すと、ランは至極真面目な顔つきで、やはり純鈴をまっすぐと見つめている。


十数秒時間を要し、純鈴はランの言葉の意味をようやく理解すると、初対面の人間相手に何を言い出すんだと、戸惑いと不愉快な思いに駆られた。だが、そう思うと同時に頭に浮かんだのは、これが恐らく冗談である事と、彼が数少ないお客様だという事だ。


「あ、はは、ご冗談を」


純鈴は間の空いた時間を埋めるように、咄嗟に作り笑いを浮かべた。

危ない危ない、からかいは接客業にはつきものだ。最近は見知らぬお客さんと接する事がないから、こういう状況がある事を忘れてしまっていた。


作り笑いを浮かべたまま、純鈴はどら焼の袋詰めを再開させるが、「冗談ではありません」と、ランはカウンターに身を乗り出してくる。どこか焦った様子が気にはなったが、純鈴は「…またまたー。何かの罰ゲームですか?」と、笑って袋詰めを再開した。


いきなり一目惚れとか結婚とか、冗談でなかったら何なのだ。店に来た時は、感じの良い人だと思ったが、ランへの印象は途端に急降下だ。

それでも、今の高屋の売上状況を考えれば、一つ購入してくれるだけでも有難いのに、彼は五つも買ってくれる。この手の冷やかしは追い返す程でもない、話は軽く受け流して、早めに退店願おうと、純鈴は作業を進めた。


「罰ゲームでもありません」

「…えー?あはは、困りましたねー、えっと、お会計が、」

「本当ですから、僕の本心です!」


そう言って、ランは再び必死な様子で訴えかけてくる。

まるで、見捨てないでと縋られているようにも思えるその姿に、純鈴は思わず言葉を詰まらせた。もしも今、ランに犬の耳が生えていたなら、きっと寂しそうに垂れていた事だろう。


「あなただと、思ってしまったんです」


思わず庇護欲に駆られ、更には、あの瞳がまっすぐと見つめてくるものだから、純鈴は堪らず視線を逸らした。ランの瞳にじっと見つめられたら、なんだか頷かなきゃいけない気になってくる。

冗談にしては本気の熱量が窺えて、純鈴はすっかり困惑していた。


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