5



純鈴すみれは、実父とは会った事がなかった。純鈴が生まれた時には、既に父の姿はなく、戸棚の上には小さな仏壇が置かれていた。写真の中の父はいつも豪快に笑っており、母の花純かすみも純鈴の前では笑顔を絶やさなかったが、こっそりと父の写真の前で泣いている姿を見たのも、一度や二度ではない。


だから、コウシと出会って、気を許している母の姿が見れた事が、純鈴は幼いながら本当に嬉しかったのを今でも覚えている。

それなのに、コウシは母を置いて旅立ってしまった。母の安らぎがまた奪われてしまったかと思うと、純鈴はいつも胸が痛んで、自分が母を助けられたらと、思わずにいられなかった。


でも、今の純鈴には、何も力がない。だから代わりに、少しでも花純の気が紛れるように、都合の良い夢を口にする事にした。


「あーあ、救世主でも現れてくれないかな…漫画みたいにさ、よくあるじゃんそういうの」

「あら…そんなこと言って、救世主は既にいるじゃない」


花純は途端に元気を取り戻し、ふふ、と可憐に笑う。その言葉の意味する所が嫌でも分かり、純鈴は思いきり顔を顰めた。


「まだそんな事言ってるの?あれは絶対、」


そこで、カラと戸が開いた。


「いらっしゃいませ」と振り返った先、にこやかに佇む青年を見て、純鈴は明らかに顔を顰めた。だが、純鈴とは対照的に、花純の表情は明るい。


「いらっしゃい、今日は幾つにします?」

「じゃあ、五つお願いします」


「いつもありがとうございます」と、花純はどら焼を詰め始める。純鈴はさっさと店の奥に下がろうとしたが、「お会計お願いね」と花純に促され、渋々レジ前に立った。


「…六百五十円です」

「はい、今日は店にいらしたんですね」


チャリと、小銭が擦れる音を立てながら、青年は純鈴の手のひらに小銭を渡す。


青年の名前は、時谷ときたにラン。あの時谷グループの新社長の弟だという。

いつもきっちりとしたスーツ姿で、癖毛のある黒髪は、たっぷりの前髪のせいで重たい印象があるが、それでもニコニコと微笑む姿は、まるで子犬のような愛らしさがあった。瞳の色も黒目がち、言葉も日本語に淀みはないが、なんとなく、普通の人とは違う雰囲気を感じる。日本人に見えて、実は日系の外国の人なのだろうか、そんな風にも思えたが、彼から滲み出る雰囲気が、異国のものだからなのか、彼特有のものなのか、純鈴には判断出来なかった。

目を僅か伏せた時の、儚い雰囲気。触れたら消えてしまいそうなのに、触れた手の平からはじんわりと熱が伝わり、当然の事なのだが、それがなんだか不思議だった。


「昨日はいらっしゃらなかったので」


愛らしい顔でにこりと微笑まれたら、世の女性、もしくは男性さえも虜にするかもしれない。だが、それでも純鈴の不遜な態度は変わらなかった。


「………」

「今日は会えて嬉しいです」


無視を決め込んでも、ランの様子は変わらない。例え失礼な態度を取っていても、純鈴に会えて嬉しいという気持ちが、その言葉以上にその表情から駄々漏れている。きっと、彼に犬の尻尾があったなら、尻尾の振れる様はフル回転で、千切れんばかりだろうと想像する。

躊躇いつつ、ちらりと視線を上げれば、やはりランはニコニコと上機嫌だ。その好意の圧力に、純鈴は僅かに屈し、お釣を渡すべくレジを開けた。


「…配達に行ってたので」

「配達…あぁ、大苑おおぞのさんですね」

「…なんでそれを?」


まさか本格的にストーカーに成り下がったのかと、純鈴は青ざめたが、ランはやはり変わらない、愛らしい子犬のままだ。


「お母さんに聞いたんですよ」

「…お母さん、」


にこ、と微笑む彼に、純鈴が母を睨めば、花純は小首を傾げてペロッと舌を出し、さっさと店の奥へ引き上げていく。悪戯っこのような仕草に、自身の年齢を考えた事はあるのかと、また溜め息を吐きかけたが、今頭を抱えるべきはそこではない。


「…あの、母に取り入るの、やめて貰えませんか」

「僕は、いつものように買い物に来ただけですよ?昨日は、お母さんから教えてくれたんです」

「…その、お母さんっていうのも、やめてくれませんか?あなたの母ではないでしょ」

「その内、僕の義母になって頂くんです、早いも遅いもないでしょ?」

「あのねぇ、」


純鈴が堪らず言い返そうとすると、ランは純鈴の手を掴んでぐい、と身を寄せた。カウンター越しではあるが、カウンターは純鈴の胸の下くらいの高さなので、腕を引かれてしまうと、体がカウンターにつっかえる状態となり、身動きが取れなくなる。更にランは純鈴よりも頭一つ背が高いので、簡単にその顔を覗き込まれてしまう。咄嗟に抵抗しようと思ったが、そっと顔を近づけられ、純鈴はますます抵抗が出来なくなった。

だって、間近に迫る愛しさに溢れたその表情、突き返したくても身動きが取れず、動こうものなら、その深い黒の瞳がますます近づいてきそうで、純鈴はわたわたとするしかなかった。


「ちょ、あの、」

「今日は会えて、本当に嬉しいです」

「いや、あの、」



純鈴は、この青年がとことん苦手だ。



「純鈴さん、僕と結婚してくれませんか?」



その理由は、連日続く、このプロポーズにある。純鈴は間近に迫る愛らしい表情に幾分頬を染めながら、それでも苦々しい顔を作り、「お断りします」と、ようやくその胸を跳ね返したのだった。




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