第4話 そこに、真夏の太陽を見る

 なんとか時間通りに職員室を訪れ、伝え聞いていた担任教諭の机に向かう。

 コーヒーの缶をあおる若い女性の前には、数学のテスト用紙が山になっている。視界の端で追ってみるが、まったく解ける気がしない。やはり、差し当たって一番の課題はここだな……。

 ちなみにというか。

 編入試験は事前に問題を入手して暗記で済ませた。完全にズルである。


「お待たせしました、遠見先生。転入生の萩原優です」

「ああ、ごきげんよう。寮はどうだった? ルームメイトは……篠崎さんだったかしら? 仲良くやれそう?」

「ええ、ありがたいことに」

「そうか。ま、篠崎さんだものね。とにかく要領のいい子だから、困ったら頼ってみるといいわ。もちろん私でもいいけど、身近なほうがやりやすいでしょ。……ただ、小ずるいところだけは真似しないように」


 あの人普段どんな学校生活送ってるんだ?


「さ、それじゃ行きましょうか。ホームルームで簡単に自己紹介してもらうけど、本当に簡単にでいいから、気負わずにね」

「はい。ありがとうございます」


 立ち上がった先生と共に職員室を後にして、寮とは一転、古き良きを体現するような味のある焦茶色のウッドタイルは、ヒールとローファーに叩かれるたび、かつかつと深く温かみのある音色を発する。歴史の中に沈んでいくような旋律は、やがて三階までの階段を上りきり、2-Aを示す表札の前にたどり着いた。


「それじゃ、合図したら入ってきて」


 先生が先んじて教室の中に入る。

 ほどなくしてホームルームが始まり、起立、礼、着席の三呼が聞こえる。椅子を引く音が聞こえないのはさすがの育ちの良さだった、なんて感心する暇もなく、扉の窓から、先生がこちらに手を振るのが見えた。

 奇妙な緊張を制して、ゆっくりと扉を開き、教室の中へと進んでいく。

 教卓の前に立つと、六行七列、最後の列に欠けが四つで三十八人。倍して七十六個の目が、一挙にボクを覗いていた。気圧されるものを感じながら、ボクは軽く会釈してから、努めて柔和な笑顔をかたちづくる。


「この度転入して参りました、萩原優です。不慣れな部分も多いかと思いますが、なにとぞ、よろしくお願いいたします」


 ぺこりとお辞儀。しーんと嫌な間。

 さ、さすがに簡単すぎたかな? おそるおそる顔を上げようとした、そのとき。


「「かっわいい!!」」


 教室が沸いた。

 いやもう、椅子の取り扱いの気品はどこへやら。人気アーティストを前に、熱烈なファンがこれでもかと詰まったハコのような有り様だった。

 口の端がひくつくのを感じる。そこまで……そこまでか。薄々思いながらも、まだボクは、これまで出会いを経てきた、Aフォーやらつばささんやらそのご友人やら莉音さんやらの感性がやや広いのではないか、そんな希望を抱いていた。が、ここまでの母数を得てしまえば、それはもはや儚いに過ぎる抵抗だった。

 そこまで、ボクは、美少女ですか。

 粉砕された男子おのこの矜持を拾い集めながら、騒動を諫め、着席を促してくれた先生の声に従う。かけられる声になるべく笑顔で答えながら、廊下側で欠けていた三つの位置のうちひとつに用意されていた、がらんと空っぽの座席に向かう。

 荷物をハンガーに掛けて着席すると、ふと、重苦しい熱風が、傷心のボクをいたぶるように吹き抜けた。けれど不思議と、運ばれてくるのは甘く切ない氷の華の匂い。

 それに惹かれるように、顔を上げる。


「あ──」


 そこに、真夏の太陽を見る。吹き荒れる蝉時雨は、三十四度の酷暑の中。

 その熱気に融け落ちるようにじっとりと汗ばむ彼女は、制服の襟を緩めながら、冷感シートの封を切る。始業五分前のチャイム。定刻通りに作動を開始するクーラー。彼女はその駆動音を見上げて、ため息には少し小さな吐息をついた。

 私は、そんな、彼女に、


「……何か」


 ボクの隣の席には美少女が座っていた。学校一と噂の美少女、神辺美香夏さんが。

 けれどどんなに残暑が厳しかろうと三十四度はやりすぎだし、蝉も鳴いていなければ、彼女も汗をかいているわけではない。……軽い星辰暴走だった。最近ではもうあまり経験していなかったが、身体や精神が弱っていると、このくらいの暴走はよくあることだ。女の子扱いがそこまで精神に来ているという事実がさらに精神に来るが、ひとまずは現状を対処しよう。

 彼女は無感情な視線をこちらに投げかけているだけで、ボクと同じビジョンを受け取ったにしては冷静すぎる。まあ、さすがに拡散段階までの暴走はないよな。

 とりあえず笑顔で挨拶してみる。


「朝、お会いしましたね。美香夏さん……で、よろしいですか」

「会ったっけ?」


 首を傾げられてしまった。ボクたちのことは本当に意識の外だったらしい。


「……すれ違っただけでしたね。萩原優です。よろしくお願いします」

「ふうん」

「えと……はい。あはは」


 しかし、美香夏さんの反応は意識以前の問題だった。外見だけじゃなく中身も冬景色らしい。隣人としては非常にやりにくいタイプの人である。

 その後すぐにホームルームも終わり、どっと押し寄せてきた人だかりに隔てられ、美香夏さんとはそれきりになってしまった。

 しかし、あのビジョンに出てきたのは……間違いなく美香夏さんだったよな?

 タイミングからして、たぶん机から受け取ったんだと思うけど……だとすると、この机の主はどこへ行ってしまったのだろう。退学でもしたのだろうか。というかあれ、まず間違いなく、表題するなら「恋のはじまり」だったんですけど。人知れず芽吹き、おそらくは散っていった恋。恋愛それ自体には理解が及ばないボクだけれど、その尊さは承知している。意図せず覗き見てしまってすみません。

 と、そうして恐れ入るような暇すら与えてもらえず、ボクは矢継ぎ早に繰り出されてくる質問やら伸びてくる手やらの対処に追われるのだった……。

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