第8話 対流する欠片(2)
優しく抱きしめられて
ラフィールの温もりと包み込む腕に心を向けて、ティアラは彼の腰に手を回した。
少しずつ心が
優しさに包まれてただじっと心のロープを手繰り寄せる。心の
「ティーが冷めてしまった」
どれくらしてからか、ラフィールの声が耳元でそう言うのを聞いた。ティアラを包んでいた腕がほどかれてラフィールの指が彼女の頬をぬぐう。
「落ち着いた?」
黙ってうなづくティアラを見てラフィールは彼女から離れた。
ティアラの心拍数や脳波をチェックして判断しているのだろう。けれど、ラフィールの様子は人と変わらない。
「入れ直してくるよ。座って待っていて」
「ラフィール、別の紅茶にしてくれる?」
「わかった」
ティアラの頬にそっと触れたラフィールは、小皿をテーブルに置くとティーセットを手に部屋から出て行った。その後ろ姿を見送ってティアラはソファーに座る。
目の前の小皿にはチョコが2個乗っていた。花束を型どったものとプレゼントの箱を抱いた子熊のふたつ。
『お嬢様、今日は良く我慢なさいましたね』
老執事の顔が浮かんだ。
目尻のシワと深いほうれい線、口ひげを軽く引き上げた優しい微笑み。
『今日は熊さんチョコをどうぞ』
スケジュールが立て込んだ日や落ち込むことがあった日に、老執事は子熊のチョコを紅茶に添えてくれた。100点満点の答案用紙に花丸をつけるみたいに。
(ラフィールも熊さんチョコをつけてくれるのね・・・・・・)
老執事が何度かそうしてくれたある日、ティアラは聞いてみた。あれは10才の頃だっただろうか。
『ねぇ、爺。どうしてこのチョコを用意してくれるの?』
『お嬢様が気に入っておられるので』
『どうして私がこれを気に入ってるって知ってるの!?』
『このチョコを見るお嬢様はとても嬉しそうなお顔をなさいます』
驚きと老執事が自分をよく見ていてくれたことが嬉しくて、ソファーに転がって笑ったのを覚えている。
『これは特別なチョコです』
秘密を語るように小声になった老執事を、息をひそめてティアラは見つめた。
『お誕生日でもなんでもない日に、旦那様が買ってきてくださった物です』
ティアラはぱっと顔を輝かせて何度も小さくうなづいた。
『奥様には内緒だとおっしゃいました』
『そうそう! そうなの!』
このチョコをまた食べたいとも買ってきてとも老執事に言ったことはない。
シンプルな動物型チョコだ。
愛らしく色付けされてはいない。中に何かが入っているわけでもない。子供ならすぐに目移りしてしまいそうな茶色いだけの熊のチョコレート。
『これ、クマさんがプレゼントを持ってるのがいいの! これを渡してくれた時のお父様を思い出すの。それにね、お父様とふたりだけの秘密を思い出すと嬉しくなっちゃうの!』
少し興奮気味に早口で話すティアラを老執事はにこにこと見つめていた。
(・・・・・・爺、どうしてるのかしら)
少し胸が痛んだ。
今頃は倉庫の中で空を見ることもなく置かれているのだろう。電源をおとして眠り続けているのかもしれない。
子熊のチョコを手に取ってティアラは眺めていた。彼女が小さかった頃から変わらない形。
「食べないの? ずっと持っていると溶けちゃうよ」
「あ、ラフィール」
戻ってきたラフィールは綺麗な所作で紅茶を入れていた。
「ねぇ、ラフィール」
「ん? なに?」
「私、このチョコを今までに何個食べたのか知ってる?」
何を聞くのかと一瞬真顔になったラフィールがにこりと微笑む。
「今日の分を足すと632個だよ」
「そうなんだ・・・・・・。もっと食べてるかと思った」
「ご褒美はチョコに限らないからね。ケーキだったり、家族旅行をねだったこともあった」
すらすらと過去の事を話すラフィールに感心する。
「そうだった」
ティアラは苦笑いした。
(数少ない家族の思い出、忘れてる)
言われてみればそうだ。家族3人で出かけた。祖父母のいない3人きりの特別な旅行をラフィールに言われて思い出すなんて・・・・・・と、苦笑いする。
「猫が好きなティアラが熊型のチョコが好きなんて不思議だね」
笑顔を向けるラフィールにティアラは微笑んで見せた。
「知りたい?」
ティアラは理由を知らないのかとラフィールに尋ねなかった。
「教えてくれる?」
「────秘密」
にごすティアラにラフィールは残念がった。
子熊のチョコを口にほうり込んでゆっくり噛むと、カリッと口の中ではぜた。
ラフィールはティアラのお気に入りを知っていて用意してくれる。
どんな時に出すか知っている。
何個食べたか知っていて、いつから食べているかもきっと知っているだろう。
でも・・・・・・。
なぜこのチョコなのか、ラフィールは知らない。
(爺は知ってたのに・・・・・・)
父親がティアラに渡したのは何げない日常の1コマで、1分にも満たない短い時間だった。けれど・・・・・・。
(喜んだ私を爺は覚えていてくれた)
持ち上げたカップの中で紅茶の
(私には大切な思い出なのに)
引き継がれなかったデータ。
(大切な思い出は大切な
ティアラの心の中をゆるゆると思いが対流している。
紅茶を一口飲み込むと、喉を通って胃を温めて体が温まっていく。
ティーポットの中で茶葉がゆっくり上下するように、腑に落ちない思いがゆるゆると動いていた。
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