第8話 対流する欠片(1)

 老婦人との会話で持ち直したと思った心がざわめく。

 大きな石が投げ込まれたようにざわざわと波立って落ち着かない。


 家に着くまでの間、ティアラは一言もしゃべらず部屋へ入り、そのままソファーへと沈み込んだ。


(はぁ・・・・・・)


 心でため息を漏らしたティアラへ、スノーウィーとシオナが駆け寄ってきた。競争をするみたいな勢いで胸に飛び込まれて苦笑い。


「ちょっと、もぉ・・・・・・」


 困りながらも嬉しい。

 2匹を抱きしめて体をなでてご機嫌を取ると、ごろごろと二重奏が聞こえてくる。


「ありがとう、大好きよ」


 しばらくティアラに甘えていた2匹は小競り合いを始めて追いかけっこ。その姿を無意識に目が追う。ふと、奥の部屋が目に入り、その横の棚に目が止まった。


(あそこには・・・・・・あの本が)


 灰色の空と青い雲が出てくる物語が置かれている。

 ティアラは思い心を引きずりながら棚へと歩いていった。読みたい訳じゃない、見たくもないはずなのに手に取らずにいられない。

 棚は花瓶や置物が空間をたっぷり使って配置されている。本も数冊ずつ分けて立てられてあった。目線に入りにくい一番下の段にあの本は置かれている。老執事がそう言ったのを覚えている。


 腰を屈めてそっと手を伸ばし指を本の背にかけて引き出した。指にページの破れ目が触れる。

 本を開くと「ここよ」と言うようにそのページが顔を覗かせた。

 数ページが束になって上から下へと裂けている。その傷をティアラは指でなぞった。雷が落ちるようにギザギザの縁取りがティアラを責めているようだった。



『その本がお嬢様に何かしましたか?』



 耳の奥から老執事の声が聞こえる。


 ふられて落ち込んで塞ぎ込んでやっと涙が止まったと思ったら、それと入れ替わりに怒りが込み上げてきた。ずっと溜め込んだ気持ちを彼にぶつけることができなくて、やるせない感情をそのまま本にぶつけてしまった。


 本に手をかけて雑にページを鷲掴みにして引きちぎろうとした。


『自由でいたいと言いながら主人公の人生は破り捨てるんですか?』


 凛とした声だった。


『だって! この本がなかったら仲良くならなかったのに! この本が・・・・・・!』


 カフェで立ち上がったときに誰かとぶつかった。その人が落としたものを拾ったらこの本で、渡そうと彼を見たときにティアラは恋におちた。


『この本、知ってるの?』

『いえ・・・・・・ドラマを見ていて』


 彼がこの本を持っていなかったら、貸してあげると言われなかったら・・・・・・。この本を出会った記念にとくれなかったら。



 あの時の優しい笑顔が今日の彼の笑顔に重なって、心がまたきゅっと音を立てる。

 サーシャと彼女の腰に回った彼の腕。

 そして、楽しそうに笑顔を向け合うふたりのスナップショットが心に大写しになって歪む。

 ティアラは大きな音をたてて本を閉じた。


「ティアラ、どうしたの?」


 ラフィールに声をかけられて、ティアラは荒っぽく本を元に戻した。


「また破り捨てるのかと思った」

「破り捨てたりしてない。破りかけたの」

「声をかけなかったら破ってた」

「止めたのはあなたじゃない、爺よ」


 ラフィールの返答にわずかな間があった。


「そうだね。正確には前の執事が止めた」


 ラフィールが少し困ったように微笑む。


「ごめん。────データには執事とだけ?」

「そう、執事が止めたとだけ記録されてる」

「どれくらい詳しく残ってるの?」


 ティアラは質問してリビングへ歩き出した。


「本を心のバロメーターしてはどうかという提案。見ても負の感情がわかなくなったら捨てる。それまで取っておくようにとの命令」


 心のバロメーター、そうだ。老執事にそう言われた。いや、正確には・・・・・・。


『本を見て嫌な気持ちになるのはまだ浄化できてない証拠。負の感情が湧かなくなってから捨てるのも気持ちがいいかもしれません。あるいは・・・・・・』


『あるいは?』

『懐かしく思い出す大切な一冊になることがあるかもしれませんよ』


 そんな日が来るとは思わなかった。現に、いまも懐かしく思う余裕などない。


『同じ破れた跡がある本は他にはありません。あとから捨てなければよかったと悔やんでも遅い。──そんなこともあります』


 老婦人の声が被さった。


『最初のアンドロイド執事を手放さなければよかったって・・・・・・時々思うわ』


 彼女の言葉がティアラの心のなかでゆれた。


(あの本が懐かしく思える日が私にもくるのかな・・・・・・?)


 リビングに入ると甘酸っぱい香りが鼻に触れた。テーブルの上にはティーセット。一気に中層の景色が思い出された。


(胸が痛い)


 あの日、車のなかから見たときよりも心が痛い。


「ティアラ?」

「・・・・・・ん?」


 いつの間にか涙がこぼれていた。

 ひとつこぼれると後を追って次々と流れ出て止まらない。


「・・・・・・! ラフィール?」


 ラフィールに抱きしめられて頭を撫でられて、彼の腕に包まれて体をあずける。


(・・・・・・温かい)


 温もりを感じるのは老執事と同じだった。


「ティアラ、今日はよく頑張ったね」


 厚みを増して涙が駆け下る。

 優しい声とたくましい胸に包まれて心の並みがおさまっていくのを感じた。


「僕がそばにいるから」


(好きな声。シャイアの声も好きだった)


 シャイアにも抱きしめられたことがある。同じような台詞も聞いた。あのときも心が落ち着いた。そして、幸せだった。


(でも、やっぱり少し違う)


 ラフィールの胸からは鼓動が聞こえない。彼のように息がかかることもない。



 そっと蓋をするように波が静まっていく。けれど、心の奥でまだゆるゆると思いが対流していた。





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