第3話 車窓(3)

(思い出したくもないのに)


 幼心の淡い恋じゃなくて、あれは本気の初恋だった。

 あんなに真剣に本を読んだのは生まれて初めてだった。それまで文字を自分の目で追って読んだことはなかった。彼のお勧めの物語で彼からもらった初めてのプレゼントで、だから丁寧に読み解きたくて、彼に感想を早く伝えたくて・・・・・・。


(・・・・・・はぁ)


 心のなかでそっと溜め息をこぼす。

 先程まで身を乗り出してかぶりつくように車窓を眺めていたティアラは、シートに深く身を沈めた。


「どうしてここを?」


 ぼそりと言った声が愚痴っぽい。

 空港に行くのに中層を通る必要はない。それなのに何故ここを通るのか、浮かんだ疑問を抑揚もなく言葉にした。


「先の執事が決めたコースですが、最短ルートに変更しましょうか?」


 振り返る執事をちらりと見て窓の外へ目を向ける。


「──いい、このままで」


 これが老執事の最後の仕事なら、ちゃんと完結させてあげてもいいかと思った。


「爺のことだもの、なにか意味があるんでしょ」


 素っ気なく言ったティアラは、力無く窓の外を眺めていた。

 社会見学なのか、それとも都会だからこそ見られる景色を見せたかったのか。



 沢山の行き交う人々が見える。

 映画やドラマの映像を見て知っていた。その光景が目の前にあることが不思議に感じられる。


(こんなに人がいるなんて)


 上層では見たことのない人の多さだ。

 天使の梯子に照らされたり薄暗くなったりする歩道を人々が歩いている。見たこともない服装や持ち物、雑踏が珍しかった。


 友達と思われる数人が立ち話をしている。

 階段に腰を下ろして語り合う若者や肩を組んで歩く人の姿。楽しそうに笑うその表情が新鮮に写る。


(この距離感、なんなの?)


 パーソナルスペースを無視した近さが信じられない。

 くったくなく笑い、友達を小突いたり小突き返されたりして互いに腹を抱えて笑っている。

 ティアラの日常には存在しない。ドラマの中の光景は本当だった。


 ドラマで見た中層の世界を自分の目で見てみたい。そんなことを言った記憶がよみがえってティアラは苦笑いした。


(爺・・・・・・。したいことリストに入れてくれてたんだ)


 ドラマと同じ綺麗な景色と、舞い上がって落ち込んだ痛い記憶が重なって心が沈む。


「お嬢様」

「ん?」

「思い出されているのですか? あの方を」


 老執事の使った代名詞を使って青年執事が聞いた。少し切なそうな瞳から目をそらして話題を変える。


「ここ、したい事リストに入ってた?」

「はい。先ほど項目から削除したところです」


 小気味良いテンポで返事が返ってきて「ふーん」と鼻で受け流す。


(リスト、ちゃんと引き継がれてるんだ)


 他の事はどうだろう。ふとそんな事を思った。



 失恋して目を泣き腫らした日々。

 リモート授業を受けずにベッドに潜り込んでばかりいたあの頃。鼻をかみすぎて鼻の下がカサカサになってた。髪もぐちゃぐちゃだったあの不細工な顔と姿を、この青年執事は知っているのだろうか。


 知っているかもしれない。そう思うと少し恥ずかしさが頭をもたげる。


「紅茶でも淹れましょうか」

「うん、そうしてくれる?」


 助手席から後ろへ移動してきた執事の顔色をうかがう。

 知っているかどうか確認したいようなしたくないような、と迷ってやめた。主人が執事の顔色をうかがうのは変な話だ。


 静かな車内にかすかに食器のすれあう音がする。

 優雅でそつの無い動きは老執事と変わりなくて、なぜか妙に安心した。

 人の流れと降る光を眺めながら心を手繰る。必要以上に記憶を掘り起こさないように、そっと感情を沈下させる。


 やがてラズベリーの香りが広がってティアラの鼻腔をくすぐった。


 ティアラのお気に入りの香り。

 気分を変えたいときにはいつも老執事が淹れてくれた紅茶。


「どうぞ」

「ありがとう」


 口に含むと甘酸っぱい香りが広がった。

 痛い思い出が少しだけ、ラズベリーティーのように温かく優しく感じれる気がした。


 でも、好きな香りがいつもよりも甘酸っぱい。


(初恋は甘酸っぱいって言うけど・・・・・・。飲むたびに思い出しちゃいそうだな)


 苦笑したティアラを執事が少し首を傾けて見つめる。


「いつもと変わらず美味しいティーよ。ありがとう」


 言った彼女に執事がくすりと笑う。


「ん?」

「私に嘘は通じませんよ」

「美味しいのは本当よ」

「は、ですか?」


 ほんのちょっと悪戯いたずらな表情、気配がとても自然だ。


「本当よ、本当。ただ・・・・・・いまの私の心には甘酸っぱく感じたってだけ。気持ちの問題よ」


 執事とお嬢様の距離を保ちつつ、ずっと前からこんな会話をしてきたように思わせる話し方。初対面の遠慮などどこにもない。


 老執事が暖かな春の日差しなら、彼は初夏の木漏れ日。

 明るくきらきらとティアラの気分を引き上げてくれていた。






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