ノイズ

「オリヴァー?」


 マリーナのその言葉に、空気が凍った。

 目の前に存在しているものが、オリヴァーであるはずがないのだ。

 アリスは肌の様々な場所に、鱗が現れている。これは彼女が自分を創る際に混ぜた種族の名残。

 見た目で変だと気付けるし、触れたのならばなおさらだ。人間の肌にはない鱗がある。

 服装も違えば、声も違う。性別だって何もかもが違っている。

 だがマリーナは、彼女をオリヴァーと呼んだ。


「なに、言って……」

「オリヴァー、オリヴァー」


 マリーナはうわ言のように、オリヴァーの名前しか呟かない。

 完全に潰された両目は、あらぬ場所を見つめていたが、心は既に目の前にいる〝息子〟に向いていた。


「ふむ」


 アリスは両頬に触れたままの、マリーナの手をそっと離した。はたき落としたり、強く引き剥がすわけでもなく。優しく離したのだ。

 マリーナは名残惜しそうに声を零していたが、それは気に留めなかった。

 再び手を添えてこないことを確認すると、アリスは口を開く。この現象が起こる理由に、覚えがあった。


「言う気はなかったんだが、気付かれてしまってはしょうがない」


 マリーナはもともと、ユリアナの中に生まれた微かな魔力――リーベにすら気付いた、大魔術師。

 それ故に、アリスの中に残ったオリヴァーの気配に気付いたのだろう。目を失っていても、魔力を感じる能力は消えていなかった。


「何が……」

「オリヴァーの死因さ」

「……っ、お前!」

「まぁまぁ」


 飛びかかろうとするヴァジムを、ポンポンと軽く叩いて制する。

 子供のようにあしらってみせたが、そんなことせずとも、ヴァジムが本当にアリスにきつく当たることなど、本能的に不可能であった。

 悔しさに唇を噛み締めながらも、その不可解さを変に思っている。


「君が私に強く出れない理由も、それに起因している」

「……」


 魔王の言うことなんざ、ヴァジムには理解出来なかった。

 そもそも彼女の言っていることを信じたくない、という考えが作用しているのもそうだが――世界の頂点を超えた存在である、絶対的強者であるアリスを理解できないのは、人間であれば当然のことであった。

 だからアリスも、ヴァジムが「わからない」と表情を作っても、それを咎めることなどしない。


「〈赤子を抱く沼ベイビー・スワンプ〉という魔術を知っているかな?」

「魔術は専門外だ」

「そうだったね。魔術はマリーナの専門だった。――〈赤子を抱く沼ベイビー・スワンプ〉は、Xランクの魔術でね」


 〈赤子を抱く沼ベイビー・スワンプ〉は最高ランクの魔術、Xランクの魔術である。

 体を沼に変化させ、対象を吸収できるという魔術だ。そしてオマケの能力として、吸収したものの能力や記憶をも引き継げるのだ。

 オリヴァーはこれにより、アリスの中に取り込まれた。

 彼は既にアリスの中に入ったことで死んでしまったが、スキルや記憶をアリスが奪ったことで、その名残があったのだろう。

 もともと優秀な英雄夫婦だ。アリスの中にある小さな小さな痕跡さえ気付けたのである。


「これがオリヴァーの死因さ。〈赤子を抱く沼ベイビー・スワンプ〉を用いて、彼を私の中に取り込んだ」

「な……んだと……?」


 オリヴァーを取り込んだ。

 ヴァジムは、そんな魔術が可能なのか、と問いただしたくなった。周りの人間に訪ねようにも、魔術に詳しい最愛の妻は狂ってしまった。

 友人であるブライアンは、同じく息子を亡くしてしまっている。己の息子の死因を知りたいがために、その傷を抉るのはあまりにもむごい。


 それに、ヴァジムは微かながらも、アリスの中にオリヴァーを見出してしまっていた。驚愕しようが、疑おうが、自身の感覚が事実だと告げているのだ。

 アリスの中に、オリヴァーがいるのだと。


「オリヴァー、私の可愛い子……」


 ぶつり、とヴァジムの中の何かが切れた。

 ずっと眉を潜めていたヴァジムの表情は、次第に柔らかくなっていく。まるで愛しい我が子を見つめる顔。可愛いオリヴァーを見つめる、慈悲深い瞳をアリスに向けていた。

 ヴァジムはそっと、アリスの肩に手を置いた。

 アリスの体は、当然だが女性である。鍛えて少しだけ筋肉質な息子と違って、丸みのある女性の体だった。

 それなのにも関わらず、ヴァジムは置いた手に違和感を覚えている様子はない。


「……そうか、オリヴァー」

「うん?」

「オリヴァー、帰ってきたんだな……」

「おい?」

「オリヴァー。約束してたよな。戦いから帰ったら、祝杯を上げるって。未成年だけど、こればかりは許される」

「ヴァジム?」


 その言動は、まさに息子であるオリヴァーに話しかけているようなものだった。

 アリスはヴァジムと、祝杯の話もしたことはない。アリスは今の見た目がどうかは知らないが、転生する前は普通に飲酒をする社会人だ。

 それをヴァジムに伝えることなどないが、何にせよヴァジムとは酒を飲み交わす約束などしていないということだ。


 さらに言えばアルコールを飲んだところで、彼女は酔うことなど出来ない。

 趣味や娯楽として食事をするアリスは、酒にも手を出したことがある。しかし彼女のスキルは、酔うことすら許さなかった。

 アルコールは毒として感知され、ふわふわとした感覚を味わうことなど出来なかった。


 どちらにせよ、魔王であるアリスと、その配下となったヴァジムが仲良く酒を飲むなんてことはあり得ない話である。


「母上」

「!」

「ヴァジム・ラストルグエフと、マリーナ・ラストルグエフの……心が読めません」

「あー」


 くいっと袖を引かれて、リーベを見やればそんな事を言う。

 リーベが心を読めないのは、現状ではアリスのみだ。それはアリスが魔眼を与えた際に、そう設定したから。他の幹部の心は読めるものの、アリスだけは読み取れない。

 まだ〝勇者の子供に対する警戒〟が強かった時期に、この魔眼を与えたからだ。しかし心を開いている現在になっても、それを解除するつもりはない。


 さてそんなリーベの魔眼だが、この夫婦の〝読めない〟というのは、意味が違ってくる。

 読むための心が、壊れてしまったのだ。


 なによりも、リーベの目は魔眼というより、常に展開されている魔術を付与した瞳を与えただけだ。一種のアイテムにすぎない。

 〈二つの真実トゥルーズ〉というSランクの魔術だ。もっと高いランクの心を読む魔術もあったのだが、危険もあるためSランクで留めておいたのである。

 それもあってか、今回のように壊れた心には通用しなかった。


「母上のせいですよ~」

「言うようになったねぇ、リーベ」

「ふふっ。まぁ彼らは、間接的にも母上の〝しもべ〟なのですから。きちんとお世話してあげてくださいね」

「分かってるよ」


 リーベに「よくできました」と言わんばかりに頭を撫でる。

 嬉しそうに目を細めたリーベは、そのままアリスの手に撫でられ続けている。


 アリスの配下――エキドナの部下となったラストルグエフ夫妻だが、片方は壊れて片方はまだまだ反抗的だった。

 結局、両方とも壊れてしまったのだが、反抗心がなくなったことはいいことだ。

 元英雄であるラストルグエフ夫妻は、今は国に嫌われているものの、その強さで時代を築いてきた。国に対しても、民に対してもその権力は強い。

 狂っていようとも、扱いやすくなるのであれば、それはそれでいいことだ。


「何を話しているんだ、オリヴァー……」

「こっちへ……こっちへいらっしゃい……」


 問題があるとすれば、二人がアリスのことをオリヴァーだと思い込んでしまったこと。

 今後はアリスがオリヴァーになりきらなければならない。

 ――まぁ、完全になりきらずとも、狂気というフィルターのかかった彼らであれば、アリスごと愛するのだろう。


「ま、扱いやすくなったといえば……そうなのかな?」

「まったく、母上ってば……」


 虚ろな瞳でオリヴァーと呟く夫婦を見ながら、アリスは小さく微笑むのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る