幼子
王都から少し離れた場所に位置するこの場所。
パルドウィン王国の人間であれば、ここの領主と、その親友の名前は誇れるものだった。かつては、誰もがその領主の名前を聞けば、感謝と敬意を示していたほどに。
だが戦争が終わってからは、変わってしまった。
ここは、英雄であったラストルグエフが暮らす街。ヨース一家が統治している街でもある。
その中のラストルグエフの屋敷では、とある女性の声が響いていた。
ヴァジムの妻・マリーナ――だったものだ。
「やぁなのっ!」
まるで幼子のように喚く声は、間違いなくマリーナ・ラストルグエフの声だ。成人もとうに過ぎた、立派な女性である。
このように喚き叫ぶような
だがこの女は、間違いなくあのパルドウィンきっての大魔術師である、マリーナであった。
マリーナは拒絶の言葉を吐きながら、屋敷の中を駆け回っている。
そしてそれを追っているのは、屋敷の使用人。困惑の表情が見て取れたが、この状況ではそれもそうだろう。
「お待ち下さい、マリーナさ――マリーナちゃん!」
「やなの! こないで!」
マリーナが廊下をパタパタと駆け回っていれば、部屋からヴァジムが出てくる。その表情は疲れ切っていた。
戦争の疲労ではなく、普段頭のいいマリーナがやっていた書類仕事なども、全てヴァジムが処理することになったからだ。
家のこと、国への援助、民からの苦情の処理、などなど。改めて己の妻には、頭が上がらないと痛感していた。
「どうした?」
「あ……ヴァジム様。申し訳ございません……」
「何かあったのか?」
「あのねっ、ヴァジムおじさん! このひとが、マリーナにやなことするのっ」
マリーナはサッとヴァジムの後ろへと隠れた。そして少しだけ顔を見せて、指を指した。
指の先には誰もおらず、窓の方を向いている。それもそうだ、彼女は両目を潰されて見えなくなっている。
ヴァジムはそれを指摘することなどなく、彼女を追っていた使用人が嫌なのだと察した。
マリーナ・ラストルグエフは、この通り心が壊れてしまった。
エキドナを倒すべく無理やり魔力を稼働させたことによる、身体的ストレス。脳からなにから、体に負担がかかった。
そしてオリヴァーと、その妻になる予定だったユリアナの死。これは受け入れがたい事実だった。
何よりも、ユリアナの腹の中に居た子供。それを一番初めに気付いたのは、このマリーナだ。微かな魔力の流れを、マリーナは感じ取った。
本人や医者が不調を感じ取るよりも前に、ユリアナの中に生まれた新たな生命を知ったのだ。それはどれくらい感激したことか、言葉にすら出来ない。
幸せを打ち砕くような出来事が続き、マリーナは当然の流れかのように心を塞ぎ、狂ってしまった。
幼子になることで、本当の自分を殻に閉じ込めた。
トラウマから守るように、マリーナは変わってしまった。
「やなことって、なんだ?」
「ごはんっ、ごはんなの!」
「……あぁ」
妻であるマリーナに対して、子供に聞くような態度を取る。
最初はヴァジムも納得出来なかったし、頭を抱えた。だが今まで自分を支えてきてくれた女性を、自分が支えないでどうするというのだ。
ヴァジムは心を入れ替えて、マリーナが再び自身を取り戻すその時まで、尽くすと誓ったのだ。
ヴァジムはマリーナから理由を聞くと、納得したように顔を歪めた。
戻ってきたばかりの、事件を思い出す。腸が煮えくり返る、嫌な出来事だった。
「どうしても召し上がって頂けなくて……。今朝も拒否されてしまい、半日は食べておられません」
「だろうな。この間雇った者が、我々を恨んでいたらしく……マリーナに熱々のスープを無理矢理食べさせていたんだ」
「ひ、ひどい……」
マリーナは両目が見えない。しかも精神もおかしくなって、完全に子供になってしまっている。
食事もトイレも風呂も何もかも、一人では出来ないのだ。
だからヴァジムは、新しく世話係を雇った。それがいけなかった。
新しく雇った使用人は、己の家族を戦争で失っていた。あの戦争から戻ってこられたのは、たった一割だ。ほとんどのものが、家族を失っていた。
恨みを晴らすかのように、マリーナの世話係に立候補し、魔術も使えない幼い子供になってしまったマリーナに対して復讐を働いた。
そして生きて帰ってきた者達は、口々にアリスへの忠義と恐怖をばらまいている。
それもあってか、ヴァジム達は酷く恨まれていた。
戦争から負けて帰ったことで、今まで英雄だの神だの崇めていた連中は、手のひらを返した。
隷属魔術で契約を結ばされたことも有り、悪魔の手先と誰もが罵るようになった。賑わっていた領地も、今となっては残っている民すらほとんどいない。
あの魔王の部下と、同じ土地には住みたくないのだという。
そんなわけでヴァジム達は拒絶され、敵が増えていった。
「マリーナ」
「……」
いくら成人女性とはいえ、食事をしないで普通にしていられるのは限界がある。そろそろ食事をしてくれないと、ヴァジムとしても困るのだ。
それに今回のメイドは、ヴァジム自ら選定し、テストをした。
まだ少しだけ残っている、王国の民の良心。敗戦して戻ってきたヴァジムたちに対しても、まだ「英雄様」と慕ってくれる数少ない者達だ。
「今日のは、美味しいミートパイだ。新しいメイドさんは、ちゃんと食べられる温度まで冷ましてくれるぞ」
「うそ。しんじない。ヴァジムおじさんも、いじわるするの?」
「本当だ、ヴァジムおじさんも食べたぞ? 嘘だったら……そうだな。お詫びにケーキでも、たくさん買ってあげよう」
「……わかった」
マリーナはそう返事をすると、モジモジとしながらメイドの方へと近付いていく。まだまだ警戒心は拭えない。
覚束ない足取りと、見えない両目をカバーするようにメイドは動いた。己の腕を掴ませて、きちんと歩けるように補助をする。
ヴァジムが仕事に追われてなければ、もっとマリーナの相手をしてやれる。だがそううまくは行かない。
「……すまないな」
「いいえ」
ヴァジムが謝ると、メイドは優しく微笑んだ。
彼女は過去にラストルグエフ夫妻が助けた国民の一人。そして敗戦後も、ヴァジム達に対して敬意を失わなかった一人。
これぞ因果応報。過去にした善行は、今こうして返ってきている。
「英雄様は、いつまで経っても、どんなことが起きようとも変わりません。私はあなたがたに助けられた。それが事実ですから」
「……ありがとう……」
ヴァジムは目頭が熱くなるのを感じた。普段から涙なんて流さないが、この状況では仕方ない。
領民も立ち去り、誰もいなくなってしまったこの街。
狂ってしまった妻に、悪意を向ける国民。そんな中、小さな優しさがどうしても染みてしまう。
彼らの希望であったオリヴァーさえも失った今、こうした微かな暖かいやりとりが、ヴァジムには堪えるのだ。
メイドとヴァジムが会話をしていると、マリーナが両頬を膨らませて怒っている。
今までのマリーナだったら絶対にしない表情だった。
メイドの腕をぐいぐいと引っ張って、早く行こうと強請っている。あれだけ食べたくないと強情だったが、やはり空腹には耐えられなかったのだろう。
「ミートパイ! はやくはやくっ」
「あっ、お待ち下さい、マリーナ様」
「ちがうのっ! マリーナは、マリーナさまじゃないの!」
「は、はい、マリーナちゃん」
「ん!」
マリーナとメイドは、食事が用意されている部屋まで軽やかに走っていった。
ヴァジムはそれを寂しそうに見送っている。
「そろそろ出立されるのですか」
「……あぁ」
ふと、後ろから声がかかった。
執事服を纏った壮年の男性だ。彼もメイド同様、ヴァジムへまだ恩義を返そうとしてくれている人物だ。
メイドと違うところがあるといえば、彼はラストルグエフに以前から仕えているという部分だ。
戦争が終わって再び戻ったときに、
「唯一の遺産が、今日、国に着くらしいからな」
「何事も無く進むとよいのですがね……」
「……まぁ、なんとかなるだろ」
「どうかお気をつけて……」
唯一の遺産。
それは、リーベという名の少年。
ヴァジム・ラストルグエフは、リーベの親であるオリヴァーと血の繋がった関係ということもあり、国内を案内する役割を買って出たのだった。
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