第143話 とある登山客の体験
──あれは一体、なんだったんだろう?
病室で妻の横顔を見ながら、ぼんやりと考える。
《あれ》とはつまり、富士山でのこと。
妻を救ってくれた少年のことだ。
私、
今日もまた同様で、ルートは初心者向けのものを選び、装備も十分に一歩一歩足元を確かめながら進んでいたのだ。
土砂崩れなどの危険にも注意を怠らなかったつもりだったが、なぜか急にそれは起こった。
誓っていうが、前兆など何一つなかった。
唐突に大量の土砂が現れて、降ってきた。
そんな感じだったように思う。
もちろん、救難に来てくれた人々は口々に、見落としがあったのだろう、としか考えてはくれなかったが……。
そして、土砂は、少し先を進んでいた妻を飲み込んで行った。
私は必死に手を伸ばしたが、ギリギリのところで手が届かず……私は呆然としてその場に座り込んだ。
誰かを呼びに……いや、ここから近くの山小屋までどれくらい……そもそもあれだけの土砂に飲み込まれてしまえば助けようなど……それでも助けなければ……。
色々な感情が、思いが一気に頭の中に浮かび、そして一歩も動けずにフラフラとその場に座り込んでしまった。
それでも、動かねばならないと気合いを入れ、立ちあがろうとしたところ、
「……何かありましたか!?」
といきなり声をかけられた。
思えば、これもまた、不思議だった。
一体どこから現れたのか、と思うほど、その人物は突然目の前に現れたのだから。
見れば、それは少年だった。
十歳……にはなっていないかどうか。
それくらいだろうか。
利発そうな顔立ちに、私に対する気遣いの色が見えた。
私よりもともすればなぜか大人のように見え、いやそんなわけがないと首を振り、けれど口はいつの間にか彼を頼るに、
「つっ、妻があの中に巻き込まれて……」
とそんな風に動いていた。
少年に言ったところで、何ができる訳もないのに。
だが、少年はすぐに何かを念じるように集中すると、
「まだ生きてる!」
と言い出した。
本当に?
そもそもなぜそんなことが分かる……そう尋ねたかったが、少年の表情には鬼気迫るものがあった。
それでいて、こういう緊急事態にひどく慣れているような妙な落ち着きも。
そして気づけば、なぜか土砂が突然動き出し、さらにその中から妻の姿が現れた。
血だらけで、生きているとはとてもではないが思えないほどの重症に思え、私は絶望した。
けれど少年が駆け寄り、何かをすると、妻の体が光り輝き、そして折れて体の外に飛び出していた骨が戻り、ズタズタだった肌がつながり、塞がっていく。
そして、妻がついに血の塊を吐き出し、しっかりと穏やかな表情で呼吸をし始めたのを見て、私はやっとほっとした。
それから少年は、
「怪我はもう大丈夫ですが、すぐに人が来ると思うので近くの山小屋に連れて行った方がいいです。そのあとはすぐに下山を……失った血は戻せないので」
と言う。
そしてそのままどこかに行こうと立ち上がったので、私は慌てて、
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 君は……!」
と止めた。
妻の命の恩人を、何もお礼もせずに去らせるなど出来るはずもないからだ。
けれど少年は優しげな微笑みをこちらに向けた後、スッと消えるようにいなくなってしまった。
その数十秒の後、後ろから人がたくさんやってくる。
他の登山客や、救難の人たちで、妻を見て慌てて簡易的な担架を持ってきて、山小屋まで運ぶのを手伝ってくれる。
普通なら動かすかどうか悩むところだろうが、今の妻は全くの無傷で、ただ気絶しているだけのように見えたからだ。
そしてその後、そのままヘリで病院まで運ばれ、私もここにいる。
あの後、私は土砂崩れについてや妻が陥った危機について色々と聞かれ、全てに答えたが、少年のことについてだけは誰も信じなかった。
幻覚を見たのだろう、とか、錯乱が記憶を混乱させているのかもとか。
私もまた、色々な検査を受けさせられたくらいだ。
だが、何の異常も見つからず、妻も貧血だというくらいの診断で……。
本当に、あの少年は何者だったのだろう。
あの少年は、確かにいた。
なぜって、妻の着ていたものには血が滲んでいる。
それに、骨が飛び出ていた場所には穴が空いているし、何もなかったとは私にだけは思えなかった。
でも……。
あの少年は、そういうことについて騒がれることを嫌ったのだろう、とも今なら思った。
あれは奇跡だった。
普通の人間には出来ないことだった。
だから、私もことさらに喧伝すべきではないのだと。
実のところ、あの後も、何人か私と同じような体験をした人々が連れてこられていた。
彼らと話すと、やはり少年に助けられたという話だった。
不思議なのは、他に若い女性と少女もいた、という話をするものもいたことだろう。
ただ、少年の印象はみんな同じだったから、多分あの少年にみな、助けられたのだと思う。
富士山で、一体何が起こってるのか。
それは分からないが……あの少年たちがいなければ、皆、助からなかった。
だから、私たちはこの経験を、私たちだけの胸にとどめておこう。
みんなでそう話し合ったのだった。
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