第2話早朝
浅い眠りから覚めると、遠くから道を走るバイクの音が近づいてきた。新聞配達のバイクだろう。
視力が弱って新聞が読めなくなり、解約したのが数年前。わが家への配達はないが、カタンと隣家のポストに新聞が落ちる気配がした。
午前五時過ぎだ。
夜中に何度も目を覚まして、朝を待ちながらうとうとしていた私は、ゆっくりと身を起こした。
春が近づいて来ている今でも、あたりはまだまだ暗い。冷たい空気が頬を
重たい布団をたたみ、息を切らしながら押し入れに押し込んでから、廊下に出て雨戸を開けた。
ところどころ引っかかって開けにくい戸を、なんとかなだめながら戸袋に入れると、サッシをガラリと開けて、外の空気を取り込んだ。
外から新鮮な風が吹き込んできて、一気に目が覚めた。
私はひんやりした空気に身をすくませた。年を重ねるほどに寒がりになる。夜着の衿をかき合わせて、急いでサッシを閉めた。
空に目をやる。あたりは少し明らんできて、植木のてぺんから飛び立つ鳥の羽音が響いた。そこここで、スズメの
台所に移動して、ザルに半合の米を入れて洗った。水を切っている間に、浴室の洗面台の前で歯を磨き顔を洗う。
オールインワンのクリームだけを薄く顔にぬって、長い白髪をくしけずり、粗く後で
着古して萎えた夜着を洗濯機に放りこんで、昨夜の入浴の時に入れてあった下着などと共に回した。
のろのろと茶色いトレーナーと緩いズボンに着替え、首には薄布を筒状に縫った生成り色のネックウォーマーを巻く。
さらに、割烹着を兼ねたキルティングの上着を羽織り、 靴下は、百均で買ったもこもこ靴下。
いつだったか、年の離れた妹に連れられて行った店で、まとめ買いしたもの。
年甲斐もなく、パステルピンクと紫のシマシマ模様でお気に入りだ。
身支度がすむ頃には午前六時を過ぎていて、家の前の道を通り過ぎる車の音もまばらに聞こえてきた。
遠くから働きに来ているのだろう、自転車に乗って、意味のわからない言葉をまき散らしながら、通り過ぎる外国人の大声も響いてくる。
ひっそりと、一人でいることに馴れた私には、他人の大きな声が少し恐ろしく感じられる。
やはり人間も動物で、若く活気に溢れていれば、恐いものなど無いような気持ちになれるけれど、老いて弱ったことを、否応なしに自覚してしまう今は、他者の強いエネルギーには恐怖を感じるものなのかもしれない。
食卓の端に置いたままのIHコンロに鍋を置き、水を切っておいた米を入れ、大さじ一杯のゴマ油をまぶす。
水は計量カップに五杯加え、「入」の文字の消えかけたボタンを押してスイッチを入れた。
鍋が沸騰するのを待つ間に、電気ポットから急須にお湯を注ぎ、お茶を淹れる。仏壇の湯飲みを下げてシンクで洗い、自分の湯飲みと並べてお茶を注いだ。
ほかほかと白い湯気の上がる湯飲みを仏壇に供え、同い年だった、私よりも若い面影の夫の遺影を眺める。
線香を一本手向けて、チンとおりんを鳴らすと、澄んだ金属音が部屋に響き渡り、胸がキュッと圧迫されるような感情がわき起こった。
しかしそれも一瞬のこと。私は喉の渇きを感じて食卓に戻った。沸き始めた鍋を前にして座って、ゆっくりとお茶を口に含んだ。
ガタガタと隣家の雨戸が開く音がしている。私より七つ年下の
お嫁さんの
いつの間にか鍋が吹きこぼれそうになっていて、慌ててコンロの温度を下げた。
鍋に鶏ガラスープの素、小さじ二杯を入れて、お玉で静かにかき混ぜる。
炊飯器を使えば手間要らずにできる中華粥だが、あえて時間をかけて作る。
今の私は急ぐ必要がないからだ。
ゆっくりと作る過程を楽しみながら、五十分後には食べられるはずの、お粥の温かさを思う。
十五分ほど煮たところで、ふと思い立って、ストック棚のカゴに入れてあった、使いかけの薩摩芋を取り出した。
菜切り包丁でさいの目に切り、軽く水さらししてから、ふつふつ煮立っている鍋に入れた。
汁が蒸発して少なくなって来たので、焦げつかないようお湯を足し、かき混ぜると、ふんわり米の香りが漂い、急に空腹が襲ってきた。
「ふふ」と、自分でもおかしく思う。
お腹が空くということは、食欲があると言うことだ。食欲があるということは、まだ少しは生きられるということだろう。
煮上がった芋入りの中華粥を椀に注ぎ、ふうふう冷ましながら、箸で掻き込むようにして口に入れると、ほんのり芋の甘さと、鶏だしの塩味が口の中で、やさしいぬくもりに変わる。
昨夜の残り物の大根の煮付けは、良く味がしみていて、箸休めの沢庵の端切れは少し固いけれど、細かく刻んであればカリカリ噛み心地が良い。
残りは昼にでも食べようと、粥を別の器に移し、空になった食器と鍋を洗った。
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