第3話午前

 タブレットにダウンロードしたショパンのプレイリストをBGMに流しながら、ノートパソコンに向かってキーボードを叩いていると、脳裡に浮かんでは消える幻想ファンタジーが、カラフルな色合いに染まって、いくつもの螺旋が渦巻いているような錯覚に陥る。


 体だけが現実にいて、心はどこか遠い世界に、ふわふわ浮かんでいるような、少しもどかしくて、なぜか強烈に引きつけられる不思議な感覚。


 どこからか湧いてくる言葉を、忘れないうちに書きとどめながら、うっとり別世界に漂っていると、突然、ピンポーンと呼び鈴が鳴って、現実に引き戻された。


 ほつれかけた髪を押さえながら、ゆっくり立ち上がり、玄関へ向かう。

しかし玄関へは下りずに、横のサッシをのぞき込み、顔馴染みの姿を認めて、サッシの鍵を開けた。


「川野さん、こんにちは」


 川野さんは、、独居老人宅を訪問しているボランティア会の人だ。

町に「見守り」を依頼されて、二週間に一度、ボランティア会で作ったお弁当を持って来てくれる。

よく言えば見守り、穿った言い方をすれば、生きているかどうかの、生存確認だ。


 見守りは彼女だけではない、乳酸飲料を売りに来るお姉さんも、宅配便のお兄さんも、それと、注文した食料などを配達してくれる生協宅配サービスの配達さんも、それぞれ、見守り人でもあるらしい。

おひとり様と言っても、たくさんの目に守られてはいるのは、ありがたい。


「こんにちは、おきさん、お変わりありませんか」


にこやかに会釈する川野さんは、数軒先の家のお嫁さんだ。

お嫁さんと言っても、もう五十近い。子供が独り立ちして時間ができたので、ボランティア活動をはじめたのだそうだ。


「はい、元気ですよ」

私が力こぶを作るように腕を曲げて見せると、川野さんは、うんうんと首を振りながら笑った。


「それはよかった。今日のおかずは肉じゃがとブロッコリーのサラダですよ。それと、ゆかりご飯」


川野さんは持っていた布袋からプラスチック容器に入った弁当を取り出した。


「おいしそう。お昼ご飯にいただきます」

「まだ寒いですから、温かくして過ごしてくださいね」


「ありがとうございます、会の皆さんにもよろしくね」

「はい、それじゃ、また」


 戻って行く川野さんの背を見送って、私は台所へ向かうと、食卓の上に弁当を置いた。


 壁の時計を見上げると、午前十時を過ぎたところだった。

水切り籠から、ピンクの猫柄マグカップを取り上げ、食卓の小さなお盆の上に置いた。


 棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出して、ティースプーンに山盛り一杯を入れる。

冷蔵庫からミルクポーションをひとつ取り出し、手のひらで握ったまま、マグカップを持ち上げて、電気ポットのお湯を注いだ。


 芳ばしいコーヒーの香りが、気持ちを落ち着かせてくれる。

私は深く息を吸い込み、香りを楽しみながら、ノートパソコンの前へ戻った。


 傍らに置いたコーヒーを、ティースプーンでぐるぐる執拗にかき混ぜる。

コーヒーの渦巻く水流を眺めながら、文章を綴っている時の、あの渦を思い浮かべていた。


 コーヒーの水流に沿わせるようにして、ミルクをたらすと、細い筋となって落ちたミルクは、コーヒーの流れに巻き込まれて渦を描いた。


 ふんわり漂ってくる香気を吸い込み、白い渦が濃い茶色の中に、ゆっくり溶けて行くのを眺める。

ほんの僅かな時間、静かな喜びを感じた。


 再びまたキーボードに向かっていると、少し疲れを感じてきた。

軽く肩を回し、目をつぶって眼球の乾きを癒やしてから、テーブルに手をつき、体を支えて立ち上がった。


 台所から廊下に出て、薄暗い廊下を歩く。風呂場の隣にあるトイレをすませると、引き返して、玄関に向かった。


 玄関ドアののぞき窓から見える外は、春めいた明るい光があふれていた。

少し寒いけれど、庭でも歩こうかと思い立って、玄関横の廊下に無造作に放り出してあった、毛糸のショールを肩にかけて、庭へ出た。


 庭は普通に歩けば一~二分でひとまわりできるほどに狭い。

そこに、今は亡き祖父母や父母が、それぞれ好きなように木を植えて行ったため、あまり統一性のない庭になっていた。


 玄関の近くにはポートワインの木という、時期になると、地味だが甘い香りのする花が咲く木がある。


 これは植木職人だった義兄さんから、一株持って行けと言われて、夫がもらってきて植えた木だ。

当時は私の腰ほどの丈しかなかったが、今では見上げるほどに育っていた。


 水道の横にあるのは、モチノキ、その先には山茶花がある。

赤い山茶花は、毎年十二月頃に咲き、地面に花びらを振りまくようにして散る。

父が息を引き取った日の朝、廊下に出て庭を見た時、散った山茶花の赤が鮮烈だった。


 来週には梅が綻びそうだ。

土を盛った築山に植えてある白梅は、古びた枝を大きく広げていた。横に鎮座している庭石にもたれて、張り出した枝にたくさんついた蕾を眺めた。


 この庭石は、祖父が置いた時は、邪魔くさいと思っていたものだったが、今となって見れば、風情が感じられなくもない。


 祖父は実のなる木が好きな人で、築山の先に、さくらんぼの木や、梨の木、柿の木、蜜柑の木などが植えられている。


 ほとんど手入れもせず放ったままなので、食べられるのは柿の実くらいだが、それでも、時期が来ると、それぞれ花が咲いて、小さな実を実らせてくれる。


 もう少しすると、母が植えた水仙が咲く。

堀上げもせず植えたままなので、年々花が小さくなっているような気がするが、たくさんの群れになって咲く黄色は印象的だ。


 ホーホー ケキョケキョと下手なウグイスの声が聞こえてきた。今頃のウグイスは毎年おぼつかない鳴き声で歌う。

もう少し春が進んでくると、あのお馴染みのホーホケキョの囀りを聞くことができるようになるはずだ。


 風が吹いてきたようで、椿の木の葉がザワザワと揺れた。

体が冷えてきたので、葉が落ちて枝だけになっている紫陽花の株の当たりで引き返すことにした。

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