四
ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗に掃除がしてある。ちょっと気がかりだから、念のため
「
のちほどと言ったから、いまに飯の時にでも出て来るかもしれない。出て来たら様子が少しは解るだろう。ときに何時だなと時計を見ると、もう十一時過ぎである。よく寐たものだ。これでは
右側の障子をあけて、
山が尽きて、
今度は左り側の窓をあける。しぜんと
入口の
家はずいぶん広いが、向う二階の一間と、余が欄干に添うて、右へ折れた一間のほかは、
時計は十二時近くなったが飯を食わせる景色はさらにない。ようやく空腹を覚えてきたが、空山不レ見レ人ヲという詩中にあると思うと、一とかたげぐらい倹約しても遺憾はない。画をかくのも面倒だ、俳句は作らんでも、すでに
やがて、廊下に足音がして、だんだん下から誰か上ってくる。近づくのを聞いていると、二人らしい。それが部屋の前でとまったなと思ったら、一人はなんにも言わず、元の方へ引き返す。襖があいたから、
「遅くなりました」と
「お
「いいや、いまに食う」と言ったが実際食うのは惜しい気がした。ターナーがある
「うちに若い女の人がいるだろう」と椀を置きながら質問をかけた。
「へえ」
「ありゃなんだい」
「若い奥様でござんす」
「あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい」
「去年お
「旦那さんは」
「おります。旦那さんの娘さんでござんす」
「あの若い人がかい」
「へえ」
「お客はいるかい」
「おりません」
「わたし一人かい」
「へえ」
「若い奥さんは毎日なにをしているかい」
「針仕事を……」
「それから」
「
これは意外であった。面白いからまた
「それから」と聞いてみた。
「お寺へ行きます」と小女郎が言う。
これはまた意外である。お寺と三味線は妙だ。
「お
「いいえ、
「和尚さんが三味線でも習うのかい」
「いいえ」
「じゃなにをしに行くのだい」
「
なあるほど、大徹というのはこの額を書いた男に相違ない。この句から察するとなんでも禅坊主らしい。戸棚に遠良天釜があったのは、まったくあの女の所持品だろう。
「この部屋はふだん誰かはいっている所かね」
「ふだんは奥様がおります」
「それじゃ、
「へえ」
「それはお気の毒な事をした。それで大徹さんのところへなにをしに行くのだい」
「知りません」
「それから」
「なんでござんす」
「それから、まだほかになにかするのだろう」
「それから、いろいろ……」
「いろいろって、どんな事を」
「知りません」
会話はこれで切れる。飯はようやく
余はまたごろりと寐ころんだ。たちまち心に浮んだのは、
Sadder than is the moon's lost light,
Lost ere the kindling of dawn,
To travellers journeying on,
The shutting of thy fair face from my sight.
という句であった。もし余があの銀杏返しに
Might I look on thee in death,
With bliss I would yield my breath.
という二句さえ、付け加えたかもしれぬ。さいわい、普通ありふれた、恋とか愛とかいう境界はすでに通り越して、そんな苦しみは感じたくても感じられない。しかし今の
突然襖があいた。寐返りを打って入口を見ると、因果の相手のその銀杏返しが敷居の上に立って
「また寐ていらっしゃるか、昨夕はご迷惑でござんしたろう。何返もお邪魔をして、ほほほほ」
と笑う。
「今朝は難有う」とまた礼を言った。考えると、丹前の礼をこれで三返言った。しかも、三返ながら、ただ難有うという三字である。
女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも
「まあ寐ていらっしゃい。寐ていても話はできましょう」と、さも
「御退屈だろうと思って、お茶を入れに来ました」
「難有う」また難有うが出た。菓子皿のなかを見ると、
「うん、なかなか
「今しがた、源兵衛が買って帰りました。これならあなたに召し上がられるでしょう」
源兵衛は昨夕城下へ
「この青磁の形はたいへんいい。色も美事だ。ほとんど羊羹に対して
女はふふんと笑った。口元に
「これは
「なんですか」と相手はまるで青磁を眼中に置いていない。
「どうも支那らしい」と皿を上げて底を眺めて見た。
「そんなものが、お好きなら、見せましょうか」
「ええ、見せてください」
「父が
茶と聞いて少し
「お茶って、あの流儀のある茶ですかな」
「いいえ、流儀もなにもありゃしません。お
「そんなら、ついでに飲んでもいいですよ」
「ほほほほ。父は道具を人に見ていただくのが大好きなんですから……」
「
「年寄りだから、褒めてやれば、嬉しがりますよ」
「へえ、少しなら褒めておきましょう」
「負けて、たくさんお褒めなさい」
「はははは、時にあなたの言葉は
「人間は田舎なんですか」
「人間は田舎のほうがいいのです」
「それじゃ幅が
「しかし東京にいたことがありましょう」
「ええ、いました、京都にもいました。渡りものですから、方々にいました」
「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じ事ですわ」
「こういう静かな所が、かえって気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。
「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出してごらんなさい。さあ出してちょうだい」と女は詰め寄せる。
「お望みなら、出してあげましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち──むろん
「さあ、この中へおはいりなさい。蚤も蚊もいません」と鼻の
「まあ、窮屈な世界だこと、横幅ばかりじゃありませんか。そんな所がお好きなの、まるで
「わはははは」と笑う。
「昨日は山で源兵衛にお逢いでしたろう」
「ええ」
「長良の乙女の
「ええ」
「あきづけば、をばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」と説明もなく、女はすらりと節もつけずに歌だけ述べた。なんのためか知らぬ。
「その歌はね、茶店で聞きましたよ」
「
「私がまだ若い時分でしたが、あれが来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。うただけはなかなか覚えなかったのですが、何遍も
「どうれで、むずかしい事を知ってると思った。──しかしあの歌は
「憐れでしょうか。私ならあんな歌は
「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、わけないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、
「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」
「なるほどそれじゃあ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済むわけだ」
「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょう」
ほーう、ほけきょうと忘れかけた鶯が、いつ
ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうーと、つづけさまに
「あれがほんとうの歌です」と女が余に教えた。
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