三
宿へ着いたのは夜の八時ごろであったから、家の具合庭の作り方はむろん、東西の区別さえわからなかった。なんだか回廊のような所をしきりに引き回されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。昔来た時とはまるで見当が違う。
不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、
給仕の時には、近ごろは客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、ふだん使っている部屋で我慢してくれと言った。床を延べる時にはゆるりとお休みと人間らしい、言葉を述べて、出て行ったが、その足音が、例の曲りくねった廊下を、しだいに下の方へ
生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔
その晩は例の竹が、
その後旅もいろいろしたが、こんな気持になったことは、今夜この那古井へ
横を向く。床にかかっている
すやすやと寐入る。夢に。
長良の乙女が振袖を着て、
そこで目が
気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛れ込んだのかと耳を
初めのうちは椽に近く聞えた声が、しだいしだいに細く
今までは床の中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるにつれて、わが耳は、
障子をあけた時にはそんな事には気が付かなかった。あの声はと、耳の走る見当を見破ると──向うにいた。花ならば
このゆえに天然にあれ、人事にあれ、衆俗の
余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰れが見ても、誰に聞かしてもゆたかに詩趣を帯びている。──孤村の温泉、──
こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかといえば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に
これが平生から余の主張である。今夜もひとつこの主張を実行してみようと、夜具の中で例の事件をいろいろと句に仕立てる。できたら書きつけないと散漫になっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。
「
この調子なら大丈夫と乗気になって出るだけの句をみなかき付ける。
春 の 星 を 落 し て
春 の 夜 の 雲 に
春 や
海 棠 の 精 が 出 て く る 月 夜 か な
う た
思 ひ 切 つ て 更 け ゆ く 春 の
などと試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。
余が
まぼろしは戸棚の前でとまる。戸棚があく。白い腕が袖をすべって
いつまで人と馬の
身体を
「お早う。昨夕はよく寐られましたか」
戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。人のいるさえ予期しておらぬ
「さあ、お召しなさい」
と後ろへ回って、ふわりと余の背中へ柔かい着物をかけた。ようやくの事「これは
昔から小説家は必ず主人公の
ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで
元来は静であるべき大地の一角に陥欠が起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性に
それだから軽侮の裏に、なんとなく人に
「難有う」と繰り返しながら、ちょっと会釈した。
「ほほほほお部屋は掃除がしてあります。
と言うやいなや、ひらりと、腰をひねって、廊下を
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