昨夕ゆうべは妙な気持ちがした。

 宿へ着いたのは夜の八時ごろであったから、家の具合庭の作り方はむろん、東西の区別さえわからなかった。なんだか回廊のような所をしきりに引き回されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。昔来た時とはまるで見当が違う。ばんさんを済まして、湯に入って、へやへ帰って茶を飲んでいると、おんなが来て床を延べよかと言う。

 不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、ばんめしの給仕も、つぼへの案内も、床を敷くめんどうも、ことごとくこの少女一人で弁じている。それで口はめったにきかぬ。というて、田舎いなかみてもおらぬ。赤い帯を色気なく結んで、古風なそくをつけて、廊下のような、はしだんのような所をぐるぐる回らされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降りて、湯壺へ連れてかれた時は、すでに自分ながら、カンバスの中を往来しているような気がした。

 給仕の時には、近ごろは客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、ふだん使っている部屋で我慢してくれと言った。床を延べる時にはゆるりとお休みと人間らしい、言葉を述べて、出て行ったが、その足音が、例の曲りくねった廊下を、しだいに下の方へとおざかった時に、あとがひっそりとして、人のがしないのが気になった。

 生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔ぼうしゆうたてやまから向うへ突き抜けて、上総かずさからちようまで浜伝いに歩行あるいたことがある。その時ある晩、ある所へ宿とまつた。ある所というよりほかにいいようがない。今では土地の名も宿の名も、まるで忘れてしまった。第一宿屋へとまったのかが問題である。むねの高い大きな家に女がたった二人いた。余がとめるかと聞いたとき、年を取った方がはいと言って、若い方がこちらへと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い間をいくつも通り越していちばん奥の、ちゆうかいへ案内をした。三段登って廊下から部屋へはいろうとすると、いたびさしの下に傾きかけていたひとむらしゆうちくが、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭をでたので、すでにひやりとした。えんいたはすでにちかかっている。来年はたけのこが椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと言ったら、若い女がなんにもいわずににやにやと笑って出て行った。

 その晩は例の竹が、まくらもとついて、られない。障子をあけたら、庭は一面の草原で、夏の夜のつきあきらかなるに、目をしらせると、かきへいもあらばこそ、まともに大きな草山に続いている。草山の向うはすぐおおうなばらでどどんどどんと大きななみが人の世を威嚇おどかしに来る。余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪しのうちにしんぼうしながら、まるでくさぞうにでもありそうなことだと考えた。

 その後旅もいろいろしたが、こんな気持になったことは、今夜この那古井へ宿とまるまではかつてなかった。

 あおむけに寐ながら、偶然目を開けて見ると欄間に、朱塗りの縁をとった額がかかっている。文字は寐ながらも竹影払階塵不動と明らかに読まれる。だいてつというらつかんもたしかに見える。余は書においては皆無鑑識のない男だが、平生から、おうばくこうせんしようの筆致を愛している。いんげんそくもくあんもそれぞれに面白味はあるが、高泉の字がいちばんそうけいでしかもじゆんである。今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。しかし現に大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかもしれぬ。それにしては紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。

 横を向く。床にかかっているじやくちゆうつるの図が目につく。これは商売柄だけに、部屋にはいった時、すでに逸品と認めた。若冲の図はたいていせいな彩色ものが多いが、この鶴は世間にがねなしのひとふでがきで、一本足ですらりと立った上に、たまごなりの胴がふわっとのつかっている様子は、はなはだわが意を得て、ひよういつの趣は、長いはしのさきまでこもっている。床の隣りはちがだなを略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中にはなにがあるか分らない。

 すやすやと寐入る。夢に。

 長良の乙女が振袖を着て、に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリアになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿さおを持って、むこうじまおつけて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、ゆくも知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。

 そこで目がめた。わきの下から汗が出ている。妙に雅俗こんこうな夢を見たものだと思った。昔そうだいぜんという人は、悟道の後、何事も意のごとくにできんことはないが、ただ夢のなかでは俗念が出て困ると、長いあいだこれを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。文芸を性命にするものはいま少しうつくしい夢をみなければ幅がかない。こんな夢では大部分にも詩にもならんと思いながら、寐返りを打つと、いつのまにか障子に月がさして、木の枝が二、三本斜めに影をひたしている。えるほどの春の夜だ。

 気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛れ込んだのかと耳をそばだてる。たしかに誰かうたっている。細くかつ低い声には相違ないが、眠らんとする春の夜にいちの脈をかすかにたせつつある。不思議な事に、その調子はとにかく、文句をきくと──枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。──その聞えぬはずのものが、よく聞える。あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと長良の乙女の歌を、繰り返し繰り返すように思われる。

 初めのうちは椽に近く聞えた声が、しだいしだいに細くとお退いて行く。突然とむものには、突然の感はあるが、あわれはうすい。ふっつりと思い切ったる声をきく人の心には、やはりふっつりと思い切ったる感じが起る。これという句切りもなくねんに細りて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒を縮め、分をいて、心細さの細さが細る。死なんとしては、死なんとする病夫のごとく、消えんとしては、消えんとする燈火のごとく、今已むか、已むかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨みをことごとくあつめたる調べがある。

 今までは床の中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるにつれて、わが耳は、り出さるると知りつつも、その声を追いかけたくなる。細くなればなるほど、耳だけになっても、あとを慕って飛んで行きたい気がする。もうどう焦慮あせつても鼓膜にこたえはあるまいと思ういつせつのまえ、余はたまらなくなって、われ知らずとんをすり抜けるとともにさらりと障子を開けた。とたんに自分のひざから下が斜めに月の光を浴びる。まきの上にも木の影が揺れながら落ちた。

 障子をあけた時にはそんな事には気が付かなかった。あの声はと、耳の走る見当を見破ると──向うにいた。花ならばかいどうかと思わるる幹を背に、よそよそしくも月の光りを忍んでもうろうたる影法師がいた。あれかと思う意識さえ、しかとは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み砕いて右へ切れた。わがいる部屋つづきの棟のかどが、すらりと動く、せいの高い女姿を、すぐにさえぎってしまう。

 かり浴衣ゆかた一枚で、しようへつらまったまま、しばらくぼうぜんとしていたが、やがて我に帰ると、山里の春はなかなか寒いものと悟った。ともかくもと抜けでた布団の穴に、再び帰参して考えだした。くくまくらのしたから、たもとけいを出して見ると、一時十分過ぎである。再び枕の下へ押し込んで考え出した。よもやばけものではあるまい。化物でなければ人間で、人間とすれば女だ。あるいはここのお嬢さんかもしれない。しかし出帰りのお嬢さんとしては夜なかに山つづきの庭へ出るのがちと不穏当だ。なんにしてもなかなか寐られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。今まで懐中時計の音の気になったことはないが、今夜にかぎって、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寐るな寐るなと忠告するごとく口をきく。しからん。

 こわいものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。すごい事も、おのれを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画になる。失恋が芸術の題目となるのもまったくそのとおりである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿るところやら、うれいのこもるところやら、一歩進めていえば失恋の苦しみそのもののあふるるところやらを、単にかつかんてきに眼前に思い浮べるから文学美術の材料になる。世にはありもせぬ失恋を製造して、みずからしいて煩悶して、愉快をむさぼるものがある。常人はこれを評して愚だと言う、ちがいだと言う。しかしみずから不幸の輪郭を描いて好んでそのうちにするのは、みずからゆうさんすいこくしてちゆうの天地に歓喜すると、その芸術的の立脚地を得たる点においてまったく等しいといわねばならぬ。この点において世上いくたの芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。われわれは草鞋わらじをするあいだ、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向ってそうゆうを説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事はむろん、昔の不平をさえ得意にちようちようして、したり顔である。これはあえてみずから欺くの、人を偽わるのという了見ではない。旅行をするあいだはの心持ちで、曾遊を語るときはすでにの態度にあるから、こんな矛盾が起る。してみると四角な世界から常識と名のつく、一角をめつして、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。

 このゆえに天然にあれ、人事にあれ、衆俗のへきえきして近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数のりんろうを見、無上のほうを知る。俗にこれをなづけて美化という。その実は美化でもなんでもない。さんらんたる彩光は、へいとして昔から現象世界に実在している。ただいちえい目にあってくうらんついするがゆえに、ぞくるいせつろうとして絶ちがたきがゆえに、えいじよくとくそうのわれにせまること、念々切なるがゆえに、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、おうきよが幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。

 余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰れが見ても、誰に聞かしてもゆたかに詩趣を帯びている。──孤村の温泉、──しゆんしようの花影、──月前のていしよう、──おぼろの姿──どれもこれも芸術家の好題目である。この好題目が眼前にありながら、余は入らざるせんてをして、よけいなぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理屈の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪るさが踏み付けにしてしまった。こんな事なら、非人情もひようぼうする価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向ってふいちようする資格はつかぬ。昔イタリアの画家サルヴァトル・ロザはどろぼうが研究してみたい一心から、おのれの危険をかけににして、山賊のむれにはいり込んだと聞いたことがある。飄然と画帖をふところにして家をでたからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしいことだ。

 こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかといえば、おのれの感じ、そのものを、おのが前にえつけて、その感じから一歩退いてありていに落ち付いて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。詩人とは自分のがいを、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便はいろいろあるが、いちばん手近なのはなんでもかでも手当り次第十七字にまとめてみるのがいちばんいい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、かわやのぼった時にも、電車に乗った時にも、容易にできる。十七字が容易にできるという意味は安直に詩人になれるという意味であって、詩人になるというのは一種の悟りであるから軽便だといってべつする必要はない。軽便であればあるほどどくになるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するやいなやうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣くことのできる男だといううれしさだけの自分になる。

 これが平生から余の主張である。今夜もひとつこの主張を実行してみようと、夜具の中で例の事件をいろいろと句に仕立てる。できたら書きつけないと散漫になっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。

 「かいだうの露をふるふやものぐるひ」とまっさきに書き付けて読んでみると、別に面白くもないが、さりとて気味のわるいこともない。次に「花の影、女の影のおぼろかな」とやったが、これは季が重なっている。しかしなんでもかまわない、気が落ち付いてのんになればいい。それから「しやういち、女に化けておぼろづき」と作ったが、狂句めいて、自分ながらしくなった。

 この調子なら大丈夫と乗気になって出るだけの句をみなかき付ける。


春 の 星 を 落 し て   の か ざ し か な

春 の 夜 の 雲 に  ら す や 洗 ひ 髪

春 や  よひ 歌 つ か ま つ る おん 姿すがた

海 棠 の 精 が 出 て く る 月 夜 か な

う た をり をり 月 下 の 春 を を ち こ ち す

思 ひ 切 つ て 更 け ゆ く 春 の ひと り か な


などと試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。

 こうこつというのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。熟睡のうちにはなんびとも我を認めえぬ。明覚の際には誰あって外界を忘るるものはなかろう。ただ両域の間にのごときげんきようよこたわる。醒めたりというにはあまりに朧にて、眠ると評せんにはすこしく生気をあます。の二界をどうへいに盛りて、詩歌のさいかんをもって、ひたすらにぜたるがごとき状態をいうのである。自然の色を夢の手前までぼかして、ありのままの宇宙を一段、かすみの国へ押し流す。睡魔のようわんをかりて、ありとある実相の角度をなめらかにするとともに、かく和らげられたるけんこんに、われからとかすかに鈍き脈を通わせる。地を這うけむりの飛ばんとして飛びえざるごとく、わが魂の、わがからを離れんとして離るるに忍びざるていである。抜けでんとして逡巡ためらい、逡巡いては抜け出でんとし、果ては魂という個体を、もぎどうに保ちかねて、いんうんたるめいふんが散るともなしに四五体にてん綿めんして、たりれんれんたる心持ちである。

 余がの境にかくしようようしていると、いりぐちからかみがすうと開いた。あいたところへまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。余は驚きもせぬ。恐れもせぬ。ただここよく眺めている。眺めるというてはちと言葉が強すぎる。余が閉じているまぶたうちまぼろしの女が断りもなくすべり込んで来たのである。まぼろしはそろりそろりと部屋のなかにはいる。せんによの波をわたるがごとく、畳の上には人らしい音も立たぬ。ずるまなこのなかから見る世の中だからしかとはわからぬが、色の白い、髪の濃い、えりあしの長い女である。近ごろはやる、ぼかした写真をかげにすかすような気がする。

 まぼろしは戸棚の前でとまる。戸棚があく。白い腕が袖をすべってくらやみのなかにほのめいた。戸棚がまたしまる。畳の波がおのずから幻影を渡し返す。入口の唐紙がひとりでにたる。余が眠りはしだいにこまやかになる。人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであろう。

 いつまで人と馬のあいなかに寐ていたかわれはしらぬ。みみもとにききっと女の笑い声がしたと思ったら目がさめた。見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下はすみから隅まで明るい。うららかなはるが丸窓の竹格子を黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議というものの潜む余地はなさそうだ。神秘は十万億土へ帰って、さんかわむこうがわへ渡ったのだろう。

 浴衣ゆかたのまま、へ下りて、五分ばかり偶然とつぼのなかで顔を浮かしていた。洗う気にも、出る気にもならない。第一昨夕ゆうべはどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜をさかいにこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。

 身体をくさえ退たいだから、いい加減にして、濡れたままあがって、風呂場の戸を内から開けると、また驚かされた。

 「お早う。昨夕はよく寐られましたか」

 戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。人のいるさえ予期しておらぬあいがしらあいさつだから、さそくの返事も出るいとまさえないうちに、

 「さあ、お召しなさい」

と後ろへ回って、ふわりと余の背中へ柔かい着物をかけた。ようやくの事「これはありがとう……」だけ出して、向き直る、とたんに女は二、三歩退いた。

 昔から小説家は必ず主人公のようぼうを極力描写することに相場がきまってる。古今東西の言語で、佳人の品評に使用せられたるものを列挙したならば、だいぞうきようとその量を争うかもしれぬ。このへきえきすべき多量の形容詞中から、余と三歩の隔りに立つ、たいを斜めにねじって、しりに余がきようがくろうばいを心地よげに眺めている女を、もっとも適当に叙すべき用語を拾いきたったなら、どれほどの数になるかしれない。しかし生れて三十余年の今日に至るまでいまだかつて、かかる表情を見た事がない。美術家の評によると、ギリシアの彫刻の理想は、端粛の二字に帰するそうである。端粛とは人間の活力の動かんとして、いまだ動かざる姿と思う。動けばどう変化するか、風雲からいていか、見わけのつかぬところに余韻がひようびようと存するから含蓄の趣を百世の後に伝うるのであろう。世上いくたの尊厳と威儀とはこのたんぜんたる可能力の裏面に伏在している。動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となったあかつきには、でいたいすいろうを遺憾なく示して、本来円満の相にもどるわけにはいかぬ。このゆえに動と名のつくものは必ずいやしい。うんけいおうも、ほくさいの漫画もまったくこの動の一字で失敗している。動か静か。これがわれ等画工の運命を支配する大問題である。古来美人の形容もたいていこの二大はんちゆうのいずれにか打ち込むことができべきはずだ。

 ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んでしずかである。目はのすきさえいだすべく動いている。顔はしもぶくれうりざねがたで、豊かに落ち付きを見せているにえて、額は狭苦しくも、こせ付いて、いわゆるびたいの俗臭を帯びている。のみならずまゆは両方からせまって、中間に数滴のはつを点じたるごとく、ぴくぴくている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆ひとくせあって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。

 元来は静であるべき大地の一角に陥欠が起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性にそむくと悟って、つとめて往昔むかしの姿にもどろうとしたのを、平衡を失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今日は、やけだからむりでも動いてみせるといわぬばかりのありさまが──そんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容することができる。

 それだから軽侮の裏に、なんとなく人にすがりたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいている。才に任せ、気を負えば百人の男子を物の数とも思わぬいきおいの下から温和おとなしい情けがわれ知らずいて出る。どうしても表情に一致がない。悟りとまよいが一軒のうちに喧嘩をしながらも同居しているていだ。この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸にしつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。あわせな女にちがいない。

 「難有う」と繰り返しながら、ちょっと会釈した。

 「ほほほほお部屋は掃除がしてあります。ってごらんなさい。いずれのちほど」

と言うやいなや、ひらりと、腰をひねって、廊下をかろけて行った。頭は銀杏いちようがえしに結っている。白い襟がたぼの下から見える。帯のくろじゆかたがわだけだろう。

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