二
「おい」と声を掛けたが返事がない。
軒下から奥を
「おい」とまた声をかける。土間の
返事がないから、無断でずっとはいって、
しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと
どうせ
二、三年前
「お婆さん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、いっこう存じませんで」
「だいぶ降ったね」
「あいにくなお天気で、さぞお困りでござんしょ。おうおうだいぶお濡れなさった。今火を焚いて
「そこをもう少し燃し付けてくれれば、あたりながら乾かすよ。どうも少し休んだら寒くなった」
「へえ、ただ今焚いてあげます。まあお茶を一つ」
と立ち上がりながら、しっしっと
「まあ一つ」と婆さんはいつのまにか
「お菓子を」と今度は鶏の踏みつけた
婆さんは
「閑静でいいね」
「へえ、御覧のとおりの山里で」
「
「ええ毎日のように鳴きます。ここらは夏も鳴きます」
「聞きたいな。ちっとも聞えないとなお聞きたい」
「あいにく今日は──さっきの雨でどこぞへ逃げました」
おりから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火がさっと風を起して一尺あまり吹き出す。
「さあ、おあたり。さぞお寒かろ」と言う。
「ああ、
「いい具合に雨も晴れました。そら
余はまず天狗巌を眺めて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々に両方を見比べた。画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の
「お婆さん、
「はい。
このお婆さんに
「ここから
「はい、二十八丁と申します。
「込み合わなければ、少し
「いえ、戦争が始まりましてから、とんと参るものはございません。まるで締め切り同様でございます」
「妙な事だね。それじゃ泊めてくれないかもしれんね」
「いえ、お頼みになればいつでも
「宿屋はたった一軒だったね」
「へえ、
「じゃお客がなくても平気なわけだ」
「旦那ははじめてで」
「いや、久しい以前ちょっと行ったことがある」
会話はちょっと途切れる。帳面をあけてさっきの鶏を静かに写生していると、落ち付いた耳の底へじゃらんじゃらんという馬の鈴が
春 風 や
と書いてみた。山を登ってから、馬には五、六匹
やがてのどかな
馬 子 唄 の
と、今度は
「また誰ぞ来ました」と婆さんが半ば
ただ
馬 子 唄 や
と次のページへ
「はい、今日は」と実物の馬子が店先に
「おや源さんか。また城下へ
「なにか買物があるなら頼まれてあげよ」
「そうさ、
「はい、
「難有いことに今日には困りません。まあ仕合せというのだろうか」
「仕合せとも、お前。あの那古井の
「ほんとうにお気の毒な。あんな器量を持って。近ごろはちっとは具合がいいかい」
「なあに、相変らずさ」
「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
「困るよう」と源さんが馬の鼻を
枝
「コーラッ」と
お婆さんが言う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ
「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、御叔母さん」
「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に
余はまた写生帖をあける。この景色は
花 の こ ろ を 越 え て か し こ し 馬 に 嫁
と書き付ける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリアの面影が
「それじゃ、まあ御免」と源さんが
「帰りにまたお寄り。あいにくの降りで七曲りは難義だろ」
「はい、少し骨が折れよ」と源さんは
「あれは那古井の男かい」
「はい、那古井の
「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、峠を越したのかい」
「志保田の嬢様が城下へお
鏡に
「さぞ美しかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。湯治場へお越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」
「はあ、今では里にいるのかい。やはり裾模様の振袖を着て、高島田に
「たのんでごらんなされ。着て見せましょ」
余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外
「嬢様と
「顔がかい」
「いいえ。身の成り行きがでござんす」
「へえ、その長良の乙女というのは何者かい」
「昔この村に長良の乙女という、美しい長者の娘がござりましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に
「なるほど」
「ささだ男に
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
という歌を
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。
「これから五丁東へ
余は心のうちにぜひ見て行こうと決心した。婆さんは、そのあとを語りつづける。
「那古井の嬢様にも二人の男が
「はあ、お嬢さんはどっちへ靡いたかい」
「御自身はぜひ京都の方へとお望みなさったのを、そこにはいろいろな
「
「ところが──
これからさきを聞くと、せっかくの趣向が
「お婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚床几の上へかちりと投げ出して立ち上がる。
「長良の五輪塔から右へお
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