翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子はしごだんの途中で吉川に出会った。しかし彼はくだりがけ、むこうのぼりがけだったので、ちがいていねいをしたぎり、彼は何にも云わなかった。もうひるめしに間もないという頃、彼はそっと吉川のへやの戸をたたいて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草たばこを吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。

「何か用かい」

 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。

「ちょっと……」

「君自身の用事かい」

 津田はもとより表向の用事で、この室へじゆうしゆつにゆうすべき人ではなかった。ばつの悪そうな顔つきをした彼は答えた。

「そうです。ちょっと……」

「そんならあとにしてくれたまえ。今少しさしつかえるから」

「はあ。気がつかない事をして失礼しました」

 音のしないように戸をめた津田はまた自分の机の前に帰った。

 午後になってから彼はへんばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。

「どこかへ行かれたのかい」

 津田は下へ降りたついでに玄関にいるきゆう使いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。

「ええ先刻さつき御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」

 毎日人のいりの番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれがれて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務をった。

 時間になった時、彼はほかの人よりも一足おくれて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋ポツケツトから時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅うちへ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。

 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、うちまで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門をくぐる必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。

「津田は吉川と特別の知り合である」

 彼は時々こういう事実を背中に背負しよって見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかもみずから重んずるといった風の彼の平生の態度をごうくずさずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえってひとに見せたがるのと同じような心理作用のもとに、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身はくまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。

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