「おいおのぶ

 彼はふすましに細君の名を呼びながら、すぐからかみを開けて茶の間の入口に立った。するとながばちわきに坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯のいたへやのぞいた彼の眼にそれが常よりもきわって華麗はなやかに見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔とやかなようとを等分にくらべた。

「今時分そんなものを出してどうするんだい」

 お延はおうぎ模様の丸帯のはじを膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。

「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍もめた事がないんですもの」

「それでこんその服装なりしばに出かけようと云うのかね」

 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延はなんにも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒いまゆをぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこのしよは時として変に津田の心をそそのかすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙ってえんがわへ出てかわやの戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。

「あなた、あなた」

 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前をふさぐようにしていた。

「何か御用なの」

 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりもながじゆばんよりもむしろ大事なものであった。

「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」

「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」

 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。

ゆう便びんばこの中を探させましょうか」

「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」

「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」

 御延は玄関のしようを開けてくつぬぎへ下りようとした。

「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」

「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」

 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻さつき飯を食う時に坐ったとんが、まだばちの前に元の通りえてある上に胡坐あぐらをかいた。そうしてそこにさんらんと取り乱された濃いゆうぜんようの色を見守った。

 すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。

「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」

 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。

「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」

「何だ書留じゃないのか」

 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそゆきの荒いめししまがらを眺めながらひとりごとのように云った。

「困るな」

「どうなすったの」

「なに大した事じゃない」

 の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。

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