寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢でばちりかかったまま夫を見上げた。

「また御勉強?」

 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれにびようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれからのがれたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手をくびった自覚がぼんやり働らいていた。

 彼が黙ってあいふすまを開けて次のへやへ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後うしろから声を掛けた。

「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」

 津田はちょっとふり向いた。

「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」

 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎりこうばいの急な階子はしごだんをぎしぎし踏んで二階へあがった。

 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊せてあった。彼は坐るなりそれを開いておりはさんであるページ目標めあてにそこから読みにかかった。けれどもさんよつ等閑なおざりにしておいたとがたたって、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気のした彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらとひるがえして書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途りようえんという気がおのずから起った。

 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれからこんにちまでにもう二カ月以上もっているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らないぶつのように細君の前でののしっていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心をくすぐった。

 しかし今彼が自分の前にひろげている書物から吸収しようとつとめている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですらめつに実際の役に立ったためしのない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力としてたくわえておきたかった。他の注意をしようしよくとしても身に着けておきたかった。その困難が今の彼におぼろながら見えて来た時、彼は彼のおのぼれいて見た。

「そううまくは行かないものかな」

 彼は黙って煙草たばこを吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうしてあしばやに階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。

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