かどを曲って細い小路こうじ這入はいった時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白いほそい手を額の所へかざすようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐそばへ寄って来るまでその態度を改めなかった。

「おい何を見ているんだ」

 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。

「ああ吃驚びつくりした。──御帰り遊ばせ」

 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上にそそぎかけた。それから心持腰をかがめて軽いしやくをした。

 なかば細君のきようたいに応じようとした津田はなかしゆんじゆんして立ち留まった。

「そんな所に立って何をしているんだ」

「待ってたのよ。御帰りを」

「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」

「ええ。あれすずめよ。雀が御向うのうちの二階のひさしに巣を食ってるんでしょう」

 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。

「何だい」

洋杖ステツキ

 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関のこうを開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫のあといてくつぬぎからあがった。

 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田がばちの前にすわるか坐らないうちに、また勝手の方から石鹼しやぼんいれぬぐいに包んで持って出た。

「ちょっと今のうちひと浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むとおつくうになるから」

 津田は仕方なしに手を出してぬぐいを受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。

「湯は今日はやめにしようかしら」

「なぜ。──さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」

 津田は仕方なしにまた立ち上った。へやを出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。

「今日帰りに小林さんへ寄ってて貰って来たよ」

「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもうなおってるんでしょう」

「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」

 津田はこう云ったなり、あとを聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。

 同じ話題が再び夫婦のあいだに戻って来たのは晩食ゆうめしが済んで津田がまだ自分の室へ引き取らないよいくちであった。

いやね、切るなんて、こわくって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」

「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」

「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」

 細君は濃いかつこうの好いまゆを心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたようにいた。

「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」

 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。

「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」

「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものをことわっちゃ」

「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」

「でもあたし行きたいんですもの」

「御前は行きたければおいでな」

「だからあなたもいらっしゃいな、ね。いや?」

 津田は細君の顔を見て苦笑をらした。

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