電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼はつりかわにぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年のとうつうがありありと記憶のたいのぼった。白いベッドの上によこたえられた無残みじめな自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分のうなり声が判然はつきり聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気をしぼすような恐ろしい力の圧迫と、された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われないはげしい苦痛とが彼の記憶をおそった。

 彼は不愉快になった。急に気をえて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。

「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」

 あらかわづつみへ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時のとうつうについて、彼は全くの盲目漢めくらであった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。

「この肉体はいつなんどきどんなへんに会わないとも限らない。それどころか、今げんにどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」

 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっとうしろから突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心のうちで叫んだ。

「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」

 彼は思わずくちびるを固く結んで、あたかも自尊心をきずつけられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼のづかいに対して少しの注意も払わなかった。

 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道レールの上を走って前へ進むだけであった。彼はさん前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。

「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」

 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上にめて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼をうしろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動についてひとからけんせいを受けたおぼえがなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれがもらおうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」

 彼は電車を降りて考えながらうちの方へ歩いて行った。

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