第2話 早朝の悪戯好きな鴉

 ――鴉がいる。

 

 ここは名もなき神宮。僕、伊勢宮稜の朝はまず手水場へ向かい、塩で手足と顔を洗い、清めることから。父に言われた「最低限」の事であり、それはゆくゆくは神宮の斎王としても必要なことだった。


 鴉は珍しいわけではない。神社と言えば、鴉や鶏、時には鷲など、神鳥たちが文字通りメッセージを持ってやってくることは多い。

 しかし、その鴉はいつになく大きく、真っ黒に少し白が混じっていた。珍しい橋細鴉。哭くでもなく、じっと僕を見ているのだ。


 ……追い払うわけにもいかないが、手水場の手すりに止まった。大きい体躯と鋭いくちばしをこちらに向けたかと思うと、手水場で水浴びを始めた。


「あ、こら! 翅だらけになるじゃないか」


 しかし、相手は御御鴉である。

 僕は立てかけてあった箒を手に、にじり、よじりと鴉に近寄った。鴉の眼がじろりと僕を捉えた。大きな鴉だ。突かれたら怪我しそうなくらいの。


 バサァ……ッ!


「冷たいなっ……なにするんだよ!」


 柄杓で水を掬って鴉を追い払おうと水飛沫を撒いた。しかし、鴉は飛べる。跳ね返った水飛沫は全部僕にやってきた。


 春の花冷えの朝だ。まだまだ水は冷たい。華鏡という桜筏の浮かぶ季節の少し前。


 見ていたら、鴉は立派な翼を一羽ばたきさせて、石の鳥居の頂点に止まってしまった。ちら、とこちらを見てまた空を見ている。


「びしょぬれじゃないか! 降りて来い!」


 背筋がまっすぐな鴉は「ん?」と言いたげにちらりと地上を一瞥しただけでまた空に目を向けた。

 飛べるくせに。

 空、飛べるくせに。


 ――鴉が見ていなかったら、見逃すところだった。空を見上げた僕は慌てて神社を駆け抜けて、父の元へ急いだ。


「お父様、天の橋立!」


 僕は慌てて空を指した。明けたばかりの黄金の残る蒼空には、彩雲のような雲が横たわっていたのだ。それはゆっくりと伸びて、見事な階段になった。

 天橋立は我が名もなき神社の神様が降りて来る時に現れると聞いている。子供心でも分かる神秘性。朝の風は夜の浄化で、とても心地が良い。

 そこに真っ白な雲が組み合わさり、虹色の階段を作っているのだ。もしかしたら、降りてくるのかも……とワクワクもするだろう。


 しかし。天橋立はやがて、ふっと蜃気楼のように消えてしまった。


 神様は降りてはこなかった。


「……珍しいものを見たな、稜」


 名前を呼ばれると、少しくすぐったい。

 僕は返事はせずに、父の横で、同じような衣装を揺らして、水晶のついた数珠を取り出した。


「龍神祝詞で良いのですか」

「……全部覚えているならな」


 まだ覚えきれていない。それでも、何となく龍神祝詞を思い浮かべた隣で、父が朗々とした声を張り上げ始めた。

 父は、大社に属する禰宜だ。地位は低いかも知れないが、統括する特別区の本庁にはかなりの信頼を得ているらしい。


 父が祝詞を上げると、世界が止まる。

 空気が止むのだ。


「父上、その祝詞は」

「国産みの、名もない神様へ捧げた天津の祝詞だ。天橋立は高次元の神様が来たという証拠なんだが、稜、何かいなかったか?」

「いえ、それらしきものは……」

「そうか」


 父は告げると、僕の小さな手を握ってくれた。


「その年で、神様に出逢えたなら、伊勢神宮の皆様も安心するだろうに。だが、天橋立が出たことは報告に行くべきだな」


 僕は顔を上げて、父を見上げた。


「天命の予兆だ。何か、来ていただろう」


 目の前をスイー……と先ほどの大きな鴉が横切って伊勢の朝に消えて行った。


「鴉か」

「ああ、あれ。さっき僕の前で嫌がらせしたんだ」

「嫌がらせ?」

「水、掛けられた。感じが悪い鴉だったよ」

「まあ、そう言うな」


 父は、僕の頭をぽんぽんと撫でて、何やら笑いを噛み締めていた。


***


 伊勢神宮に向かった折に、五十鈴川を通った。そこにあの大きな鴉はたたずんでいたが、すぐに南方に飛んで消えた。


「あの方面には、今は封鎖された瀧原宮があるんだ。お鎮まりあそばすのか」


 父は、色が褪せた倭宮の立てかけたままの看板を読んでくれた。

 朝陽はすっかり上がって、伊勢神宮の鳥居をまばゆく照らしている。



 ――この朝、僕は、天橋立の伝承が正しかったことを知った。天橋立を見た朝には神様こと天照大神は気まぐれにやってくるのだと。


 威厳がある鴉の理由であった。



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