『太陽と鴉と狐。~伊勢に響く僕の祝詞を~』

天秤アリエス

第1話 夕暮れにぼくの祝詞を聞く狐

 神社の閉門の時間だ。「稜、裏参道のほうを頼むよ」といつもの父の声がする。ここは伊勢神宮の近くにある、小さな神社。裏には続く五十鈴川が流れている。この川には様々な伝承が残されていて、そのうちのひとつが「天照大神」に纏わるもの。

『天照大御神は、五十鈴川のほとりでお鎮まりになった』と内宮には掲げられている。

(ぼくは幼少で、学校には行っていない。神道特別区の子供は、教育は独自に行われる。まして、伊勢神宮の系列ともなれば、それは神道のエリートだ)

 さて、ぼくは伊勢宮稜という。ここは伊勢の名もなき神社。神宮が分裂したとも言われているが、伊勢には神々が多い。


「……高天原にマシマシテ……」


 覚え立ての龍神祝詞は、まだまだ意味が理解できていないが、祝詞は「奏上」すると言う。ゆっくりと上げると、楠たちが呼応するように夕暮れの風に揺れる。

 ぼくはこの瞬間が好きだ。


「なんだっけ……」


 まだまだ長い龍神祝詞。覚えたのは、ほんの二行。父や母に連れていかれた大社の祭りでの祝詞は大層長く、どんどん凄みを増していった。

 

 ところで、裏参道のほうを頼むよ、とは神社の閉門前の鬼矢来という確認作業である。神社の夜は早い。黄泉から逢魔がやってくるからだ。特に夏の百鬼夜行などは聞いたことがあるだろう。しかし、逢魔と言っても、一口に全部を敵だとは思えない。

「たかまがはらに、ましまして」


 何度も繰り返していたら、ほうら。


 子狐を連れた親狐が入りたそうに裏参道の東堂前の灯籠の影からぼくを見ている。

 祝詞は時に、幽界の獣を呼び寄せる歌にもなる。


「てんとちのみはたらきをあらわしたもう りゅうおうは」


 口ずさんでは「たかまがはらに」と戻る僕の下手な祝詞を、親子狐はじっと聞いていた。夕暮れの風が、葉を躍らせて、下界へと運んでいく。その様を母狐はじっと見ていた。子狐はそんな大きな白い母狐の尻尾に隠れて、追いかけっこを楽しんでいる。


 伊勢には九尾の狐がおるやんやん。


 ここには、不思議な生き物がたくさんいる。

 生き物と言っていいのか……ぼくは「存在」という言葉を知らなかった。


 夜と夕方の合間に空に、今日も僕の祝詞は高く上がって溶け行く。いつか、この高い声は無くなるんだって。大人になって、そしてそして。

 八咫鏡を預かる立派な斎王になるべきなんだと。


「僕は男だからさ、鏡なんか要らないんだけどな。こっちには入れられないよ。何度来ても、閉門に君たちを入れないようにするのが僕の役目だ」


 小さいながらもきちんと仕立てて貰った神主の衣を揺らしながら、僕は灯籠に火が灯っているかを確認すべく、歩き出した。


 秋も深まる夕暮れである。


 狐の親子はコーン……と高く鳴き、僕は寄り添うように祝詞を繰り返す。


 響け、僕の声。

 どこか、遠い、誰かのいる、時間の中に。


 祝詞をゆっくりと上げていると、そんな気持ちになるのだけれど、この時の僕はまだ、その気持ちを表現する術を知らなくて。


 ぼくは伊勢宮稜。そのうち、伊勢神宮の内宮斎王になる予定――。


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