扉を閉めて、鍵をかけて。[四折]

扉を閉めて、鍵をかけて。[四折]


 死神には残りの生命がロウソクに灯る火として見えていると、多くの物語に記されている。しかし、物語のように火を消す権利などはないのだ。ただ、生命の側に行き、火が消えるまで寄り添って、話を聞く。それがわたしのお仕事だ。


 空から見下ろす灰色の鉛筆たち。どうして、こうも人間という生き物は、上へ、上へと積み上げていくのか。街に影が出来て、仄暗くなるというのにやめない。色を失い、空気の澱んだアパートメントの一室に彼女は横たわっていた。この寒さの中、薄いシーツに包まっているだけで骨と血管が浮き出ているではないか。


「こんにちは」

「……迎えに……来て…………たの?レー…?」


 彼女が呼んだ名は、わたしの名では無い。彼女の妹君の名だ。改めて、スカートの裾をつまみ、少し傾げづくように人間の挨拶を下手に真似ると「最近……の、死神さんは……」と、いつもの言葉を掬い「はい、挨拶をします」と微笑む。彼女と最期に向けて、お話を始めよう。


「今際の際が暖かくて、晴れやかな気分なんて不思議」

「苦しく、辛いものだと思っていましたか?」

「ええ……お陰で安心したわ、死神さん」


 その“安心”は彼女自身の安心ではない事をわたしは知っている。


 狭い部屋に華奢なベッドと小さな机の上には痩せたランプ。ひとつだけ置かれたトランクは数着の衣類を咥え、口を開いたままだった。彼女が「可笑しいでしょう。昔、あのトランクは大家族だったのよ」と、くすくすと笑う。彼女はとある領主の娘で十何人もの家事使用人や従者を従わせる家の娘、その三十九年後の姿。まだ彼女らの生活基準は庶民が食べる事の出来ない食事を毎晩食べ残し、朝から遊びに興ずる生活が送られる事が出来ていた。


「何故、貴女は家を出たのですか?」

「理由は女が男の為に存在する事に疑問を持ったからよ」

「それは表向きの理由だと知っています」


 やわらかく温かい色が戻った彼女がベッドの上で座り直し、困った笑みで「そうね、死神さんの言う通りだわ」と目を伏せる。彼女は故郷から半ば逃げ出すように出て、街で没頭したのは執筆業。食事を摂る事も忘れ、睡眠時間も二時間ほどで、稀に忘れる事もあった。


「あの子がね……妹が作家になってねって」

「その身体で医者にもかからず?」


 また、くすくすと笑いながら、家を出た時は若かったから身体の事など考えていなかったと自身の愚かさを話す。作家として、人生として辿り着いたこの狭い部屋に空いた“穴”とでも言うべき窓から、明るい光や新鮮な空気などは入らず、仄暗く霞み、空気が澱んでいるのは貴女自身の心だと自虐した。


「窓があっても光を取り入れない窓は窓かしら?窓を開いても部屋より汚れた空気を招く窓は窓かしら?」

「それは呼び名の問題であって、“窓”というものを開くか開かないか、何の為に開くのかは自由です」



「私は……妹を亡くして、光を失ったのよ」

「では、貴女の人生がこうなったのはレーナさんの責任ですか?」


 品のある置き方で重ねられていた両手が、きゅっと握られる。


「夢だ、人権だ、お父様の言い成りは御免だ……なんて、子どもだった」


 小さな頃から作家を夢見て、自ら文章を書くようになってからは、病弱で外の世界を知らない妹君の為に“世界を作る”事に没頭した。


 “ねえ様!おもしろいっ!つづきはあるの!?”


 作家としての喜びは愛した妹君の笑顔で初めて満たされる。それから、毎日、自分の部屋で、学校で、社交のハンティングを楽しむはずの日傘の下で物語を書き続けた。今日、明日、明後日の妹君が過ごす部屋が、少しでも楽しくなるよう書き続けた。


「恐らく、一日に何度も……読み終わった物語も何度も読んでいたみたいなの」


 妹君の葬儀が終わり家族で部屋を片付けていると、手渡した“世界”は大事に箱にしまわれ、何度も読むのだから手垢が付き、よれよれになっていた。“世界”を作り続ける意味を失った彼女は“手垢が付いた世界”と“ふたつ目の世界”を見付けたのだ。


「そうだ、私は作家になろう。レーナを楽しませたように、たくさんの人達に世界を作ろう……」

「その口実にレーナさんの名を使ったのですね」


「そうね。私は自分の夢を語る程に強くなく、世間を知らなかった」


 まだこの時代に“生活”が出来た女性作家は片手で数えられる。いくら多くの作品を生んでも、彼女らの“世界”は軽く扱われた。彼女もまた足りない生活費の足しにと少しずつ持ち物を売り、家賃の安い家に変え、食事を減らし、原稿に向かう女性作家の一人となる。若さがペンを走らせたが、同時に無理な生活をさせた若さが病魔に手招きをし、彼女の手からペンを奪う。ある朝、酷い咳と焼けるような熱で起き、水を飲もうと起き上がろうとしたが酷く身体が痛み、ベッドに沈んだ。


「誰にも体調の事を話さなかったのですね」

「人間はある瞬間まで強く燃える。火が消えかかってからロウソクが無いのだと気付く」


 人の夢は儚く、夢の中にいるとまぶたの向こうの朝陽は見えない、と、はにかみ、くだらない言葉遊びね、と、戯けてみせる。


「昔、レーナとお話をしてくれたのも貴女ね?」

「はい」

「苦しんでいたけれど安心したわ。貴女は良い人だから」


「わたしは良い人ではなく、死神です」


 ふふっ、可笑しくて可愛く、良い死神さん……、と、声の香りを残し、灯が消えた。


 とある作家の人生を本に記していた。彼女が身体の異変に気付いたのは、彼女とお話をした三日前の事で、その日は出版社に出向くはずだった。あの時代に彼女が“女性作家”としてではなく“作家”として扱われていたら、まだわたしがペンを走らせる必要なんて無かったのかもしれない。


 彼女ほど、字も言葉も上手くはないけれど……、


「あなたは人生をよく生きたと思います」


 この気持ちは心の底、誰にも覗けやしない仄暗く、深い場所から込み上げてくる気持ちだから喜んでくれるといい。わたしがいつも魂から離れた生命に贈る言葉。


 収蔵室から出て、扉を閉めて、鍵をかけた。


おわり。

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