扉を閉めて、鍵をかけて。[五折]
扉を閉めて、鍵をかけて。[五折]
死神には残りの生命がロウソクに灯る火として見えていると、多くの物語に記されている。しかし、物語のように火を消す権利などはないのだ。ただ、生命の側に行き、火が消えるまで寄り添って、話を聞く。それがわたしのお仕事だ。
終業時間十三分前の椅子から空の美しい土の道を歩いていた。両脇に打たれた低い杭の向こうは草原で、木々と草花を風が気持ちよさそうに揺らしていく。わたしもその風に押され、白い雲と一緒に道の先、白い屋敷にまで案内された。腰の高さに揃えられた白い板塀をたどり屋敷裏手の庭を覗くと、ティーポットとティーカップ、お皿が置かれたテーブルで二人の女性が険しい顔をしていた。
「奥様、今日こそ私がカップを洗いますよ」
「いいえ、これは私の仕事です」
家事の手伝いに来ている使用人に仕事をさせない婦人が、目を閉じ「早く子ども達の所へ帰ってあげて」と微笑むのだ。使用人は「私は何の為に奥様に雇われているのですか……?」とため息混じり、眉間にしわをよせた。婦人が簡潔に「話し相手」と答え、また微笑み「また子ども達を連れて遊びに来なさい、今日はあの子達の元に帰ってあげて」と言い、複雑な表情をした使用人が「では、奥様……また三日後に来ますからね」と挨拶をして、腕にバスケットを掛けた。
「ええ……………いつも、ありがとう」
穏やかな春の陽射しの下、風が抜け、庭に生えている背の高い草や花、雑草の類いが揺れ、一礼をした使用人が両腕を摩りながら「風邪でも引いたかしら」と、わたしの横を通り抜ける。彼女は、わたしの気配を感じる事の出来る感性があるようだった。
低い板塀の扉を開けて、庭の柔らかい土を踏む。様々な草花が咲くこの庭は、一見、手入れがなっていないように見えるのだけど、どの植物も生き生きと陽を浴びて萌えていた。たくさんの猫が駆け回り、蛙や蝶、かたつむりに蟻までもが自分らしく生きている。まるで小さく閉じ込めたこの星のようだ。
先程までティーカップを相手にしていた婦人は椅子にもたれ掛かり、穏やかな表情で目を閉じて心地良さそうにしていたのだけれど、申し訳無くも声を掛ける。
「こんにちは」
「……あら…………私ったら、うたた寝を……」
人間のそれを真似てスカートの端を両手でつまみ上げると、片脚を下げ、不器用に傾げづく。わたしのぎこちない挨拶に婦人がくすくすと笑い「貴女のような若い方が礼儀を重んじのは良い事だわ。ところで見ない顔ね。お名前は?」と向けられる穏やかな声と眼差し。私は死神です、と、告げても「そう。最近の死神のお嬢様はご挨拶をするのね」とカップを口に運び、慌てたり、驚く様子は全く無かった。
「わたしは死神ですが挨拶をします。それは生命を尊敬しているからです」
「偉いわ。随分とそんな人は減ったのよ……」
三脚ある椅子の残りひとつに座るように言われ、スカートがしわにならないように、お尻から太ももに手を通していき座る。婦人がティーポットから紅茶を入れて、わたしの前に置き、お皿に掛けられていた布を取って「お菓子もどうぞ。死神のお嬢様」と頬杖をついた。
「怖くはないのですか?」
「いいえ。これが自然というものでしょう?」
わたしと婦人、そして、生命が終わりに近付き、春の陽射しを受けて穏やかに眠る婦人の三人で囲む庭のテーブルで灯が消えるまでお話をする。
「この庭はとても美しいですね」
「そう?よく庭師が“荒れてますね、安くしますよ”って来るけれど」
そう洒落て、くすくすと笑う婦人の庭は自然のそれだ。ここには美しい花だけでは無く、雑草も生えている。それもまた必要な草だから共生させていると指を差しながら教えてくれた。雑草なんて呼び方は人が付けたもので、自然にはそのような植物は無いのだと。
「私はね、綺麗な花だけのお花畑は嫌いなの」
「貴女の人生ですね」
「随分と長い間生きたからお花畑を荒らしたり、色んな経験をしたわ」
婦人の人生に色が着いたのは七歳の頃の初恋で、十歳以上離れた飛行機に乗る従兄弟だった。まだ飛行機というものを使った戦では貴族が乗り、争いに騎士道が重んじられた時代。彼は同僚と空に飛び上がったっきり、降りてくる事は無かった。
「恋が貴女の人生なのですか?」
「そう、人生。様々なかたちで、様々な恋を楽しんだ」
十八歳まで寄宿舎で過ごした女学校では、何人かの生徒と“秘密の恋”もし、この屋敷に帰ってくると庭で泥だらけになり働く庭師にも恋をした。
「私の庭にはたくさんの花が咲いたのよ」
婦人が顔を向け、懐かしそうに見る花壇は想い出が植えられた花壇なのだろう。婦人と庭師が土に汚れ、庭仕事を一緒にした想い出は今や草花となっている。恋は純粋というが、それは美しい心だけではなく、卑しい事にも純粋という意味だ。美化された感情だけではなく、毒となる感情にも従順。美しい花の中には毒があるものもある。花に従順に、婦人が育てていった恋は色を着ける前に、突然として庭師が屋敷からいなくなるという形で枯れる。
「身分をわきまえろ、なんて不自然な言葉よ」
「その方はご両親に解雇されたのですね」
「ええ。彼とは礼拝の後に部屋で愛しい人とするデートを約束していたのに」
二十二歳になると様々な男性が声を掛けてくるようになる。それは彼女自身の美しい髪や青く透き通った瞳、知的で簡潔な言葉を選ぶ性格という魅力を、一心に口説くというものでは無かった。そのほとんどが屋敷と土地、財産や階級を口説いていた。だから、彼女は彼女の世界の外から来る人に恋をするのではなく、彼女の世界の内側から出会い、自分に声を掛けない男性に恋をするようになる。彼女は知っていた。“声を掛けてくる男性は自分以外を求める恋”で永くは愛されない。自然を生きようとする婦人にとって、それは美しい花々だけが植えられた不自然な庭だ。
「私は嫌い。花だけが輝く庭なんて大嫌いなの」
猫や動物がいて花や雑草、ミミズまでもが美しい庭は彼女の人生だ。自然という名の普遍の再現。人間が生かされている大地の小さな、小さな箱庭。
「ねえ、死神のお嬢様?貴女の恋も聞かせてくれないかしら」
「わたしは恋というものをした事がありません。それどころか同僚すら変人がります」
「大丈夫。貴女は笑うと、もっと可愛らしく魅力的になるわ」
笑う。人間という生き物は笑えと言われて、笑えるのだ。感情を表現する筋肉にまで嘘が吐ける。わたしは頬に両手を当て、そのまま皮膚を上げてみせた。
「どうですか?笑えてますか?」
「ふふっ、ふふふ。貴女、本当に可愛いらしいわね」
草原を抜けて、雲と一緒にやってきた風が頬を押さえているわたしの手を撫でていく。春の陽にうたた寝をするような婦人の灯が揺れる。その姿を穏やかな微笑みで見る婦人の生命。
「穏やかなこの姿が恋多き女の最期なら美しいわね」
「貴女は充分に美しいですよ」
「笑顔が下手な死神のお嬢様は口説くのは上手なのね」
婦人が最後にした恋は、わたし、だった。
自然を愛し、庭をそれに近付けようと苦心しながら、自然体の生命で生きた生命を本に書いていた。彼女に“死神を見て怖くは無いのか”と尋ねても、笑いながら“それが自然なのだから怖くはないわ”と言ったのは、わたしに恋をしたからだ。生まれ落ちた生命はどういう形であれ、必ず最期を迎える。それが理であり自然であるのだと彼女は知識や身体ではなく、恋で知っていた。
「庭。この庭が教えてくれたのよ」
人生に一度しかない初めてを捧げようと思っていた庭師との恋。叶う事はなかったけれど、あの素敵な庭の事を“私達の子ども”と笑った生命。彼女は生涯、子をもうける事はなかったが、かたちを変えて子どもは生きていく。貴女がいない世界で、あの庭は人々が憩う場となり、何人かの庭師によって守られる箱庭と未来になるのだ。
窓の外で落ちていく陽に思いふけていたからペンが止まっていた。洛陽が肩に止まるそこを叩く、上司。ああ、今日も叱られる………と思ったのだが、この後、同僚達と食事に行こうというお誘いだった。
本を閉じて“恋”というやつを思いながら呟く。いつも残業という花に愛されるわたしなのだが、どうも庭に恋は咲かない。
「あなたは人生をよく生きたと思います」
この気持ちは心の底、誰にも覗けやしない仄暗く、深い場所から込み上げてくる気持ちだから喜んでくれるといい。わたしがいつも魂から離れた生命に贈る言葉。
収蔵室から出て、扉を閉めて、鍵をかけた。
おわり。
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