中編

 帰り道、あたしはがらんどうの肉体をどうにか動かし、家へ着いた。祖母が待っていた。


「美里。こんなに遅くまでどこ行っとったん?」

「兄さんのとこ」

「また呼び出されたんか? 藤宮の家とはもうお母ちゃんが話つけたやろ、美里はもう関係あらへん」

「せやね」


 遺産の問題はまだ片付いていないことくらい、あたしは知っていた。母は日に日に憔悴しており、それが哀れではあったが、元々そういう関係を結んでしまったのは母自身だもの、あたしの認知届けを出させた母が悪いとあたしは思っていた。

 台所には、祖母が作ったクリームシチューがあった。それを一人で温めて食べた。やはり、冬はいい。美味しいものがたくさんある。食事をしているときは、生への充足感というものがある。

 生、と聞いて思い付くのは、雪子の左手首についているためらい傷だ。彼女は中学生のときから、リストカットを繰り返しているらしかった。だから、決して半袖を着ない。初めは、日に焼けるのが嫌で夏でも長袖なのかとあたしは思っていたが、ある日突然打ち明けられたのである。


「こんなん言えるん、ミリちゃんしかおらんねん」


 なぜ雪子があたしに懐いたのかは分からない。でも、大学で一緒に食事を取れる人が居るのは有り難かったし、彼女のお説教はたまに鬱陶しいけど、それでもあたしは彼女のことが好きだった。

 そう、あたしには好きなものがたくさんある。父が買い与えてくれた、桜色の万年筆。いつかのクリスマスにサンタから貰った、大きな熊のぬいぐるみ。

 あたしは幸福な人間だ。だからこそ、退屈というものをしっかり味わうことができる。兄と交わった翌日、また別な男からの誘いにあたしは乗った。


「美里ちゃん、ほんまに可愛いなぁ。好きやわ」


 彼にはまだ、ミリとは呼ばせないようにしていた。呼んでいいのは、今のところ陽平と雪子だけだ。彼は気を利かせたのか、多少値の張るホテルで、あたしを丁寧に抱いた。


「美里ちゃん、オレのこと、好きって言って?」

「好き」

「ありがとうなぁ」


 頭を撫でられ、キスをされ、あたしは身体をされるがままにしていた。そのとき考えていたのは、今夜の夕食についてだった。また祖母は何か作っておいてくれているだろう。そろそろ、おでんとか食べたいな。

 そんなことを考えていると、彼は達していたようで、コンドームを引き抜いた。あたしは一人でシャワーを浴びに行った。無香料のボディーソープがそこにはあった。特に匂いなんて気にする必要は無かったが、それを使った。

 浴室から戻ると、彼はぷかぷかとタバコを吸っていた。


「なあ、もっぺん言って? つばさのこと好きって」


 そうか、この彼は翼という名前だったか、と思いながら、あたしは言った。


「翼のこと、好きやで」

「うん、オレも」


 真心と言ったことがあべこべだろうと、どうせ構わない。彼が自分のことを好きと言って欲しいとせがんだ。だから言った。それだけのことだ。


「美里ちゃんをオレだけのものにしたい。あかんかな?」


 返事に困ったあたしは、答える代わりに自分のタバコを手に取った。しばらく無言の時が流れた。翼は諦めたようで、こう言った。


「あかんねんな? それでもええよ」


 あたしはそのセリフがどうにも気に食わなくて、ホテルを出るなり陽平に連絡した。


『今から会って』


 返事はほどなくして来た。


『バイト中。終わってからなら会える。飯でも食いに行くか?』

『うん』


 あたしは駅前のコーヒー・チェーンに入った。別にここのコーヒーは美味しくはない。ただ、喫煙スペースがあるのはここだけなのだ。

 ホットのブラックコーヒーを胃に押し込みながら、あたしは時間が過ぎるのを待った。他のお客を見ると、ノートパソコンやスマホに目を落としていた。あたしはただぼおっとカップを眺めていた。お腹が空いていた。


『終わったよ。駅前集合な』


 二時間ほどして、ようやく陽平から返事が来た。あたしはうきうきと待ち合わせ場所へ向かった。ご飯が食べられるのだ。もう祖母が何かを作っていたとして、明日食べればいいだけ。だからいつも通り連絡はしなかった。


「ミリ。また男と会ってきたんか?」


 顔を付き合わせるなり、陽平は聞いてきた。


「うん」

「満足できひんかったん?」

「うん」

「ほな、とりあえずご飯行こか」


 陽平は何が食べたいかをあたしに聞かなかった。聞いたところで、美味しいものなら何でもいいとあたしが言うのを見越してだった。彼はローストビーフが食べられるお店に連れていってくれた。


「酒飲むか?」

「どっちでもええよ」

「俺は飲みたい。赤ワイン、頼むで」


 運ばれてきたローストビーフと赤ワインに食らいつきながら、あたしはまた、生きている実感に胸を震わせていた。肉の甘味と赤ワインの渋味が口の中で調和し、なんとも言えない幸福感をもたらしてくれた。


「ミリはほんまに美味しそうに食べるなぁ」


 ワイングラスを揺らしながら、陽平が言った。


「だって、美味しいんやもん」

「そういうところがええわ。ミリは無垢なんや。どこまでもな」


 やっぱり、陽平はあたしのことを分かってくれている。それがとても嬉しかった。幾人の男に身体を明け渡そうが、あたしの魂自体は天然無垢だった。それを言い当てられたのだ。嬉しくないはずがない。

 お店を出てから、ホテルに行き、陽平とセックスをした。翼がつけた痕が太ももにあったらしく、それを指摘された。


「アホやな、その男も。こんなことしても、ミリは誰のもんにもならんのにな」


 そう、あたしは誰のものにもならない。誰かの所有物になってたまるもんか。だからこそ、認知届けなんて出しておいて欲しくなかった。あたしと父との関係は、公式に記録されてしまっていた。それは、あたしが父に所有されているようなものだった。

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