第九話
ヴァレンシュタイン邸に帰宅すると、ちょうど玄関先に二頭立ての馬車が停まっているのが見えた。車体に刻まれた紋章を確認したエルネスタは、少し慌てる。
銀色に光る二匹の魚――ライエンベルク子爵家の家紋だ。
「マリー、ちょっとここにいてね」
ハイデマリーにそう言い置いて自分だけ馬車を降りたエルネスタは、来客の馬車に近づく。
するとそこには、くすんだ金髪に紺色の目をした細身の青年が、何かの書類を手に佇んでいた。
目の下のクマが特徴的で、どこか幸薄い顔をしている彼はローレンツ・ライエンベルク。魔術省ではエルネスタの副官を務めてくれている、三等魔術師だ。
「ああ、先輩。ちょうどよかったです。机の上に書類をお忘れのようだったので、お届けしにきたところで……」
(書類の忘れ物なんてしたかしら?)
首を傾げてよく見ればそれは、不要になった紙束の裏をメモ用紙として使っていたものだった。そのメモも、半ば落書きのようなくだらない内容ばかりである。
ローレンツは副官としては非常に優秀だが、時折こうしてうっかり抜けている部分を見せてくることがある。
ただ、それを指摘すると可哀想なほど落ち込んでしまうため、エルネスタもあえて口にするような真似はしない。
「わざわざありがとう、ローレンツ。中でお茶でも……と言いたいところなんだけど、今日はちょっと都合が悪くて」
「いえ、お構いなく。僕もこの後すぐ、研究室に戻らないといけないので」
そう言って、ローレンツはエルネスタに書類を渡そうとする。
しかしその時、偶然にもつむじ風が吹き、書類を巻き上げてしまった。慌てて手を伸ばしたおかげで何枚かは手元に残ったが、残りはどこへ飛んでいったのか、周囲を見回してもどこにもない。
「す、すみません先輩……!」
「大丈夫よローレンツ。元々、メモ書きに使ってた大して重要でもない紙だし……」
情けない顔でおろおろするローレンツにそう言うと、彼はどこかショックを受けたような顔をしていた。少しでも気が軽くなればと思って口にした言葉だったのだが、逆効果だっただろうか。
落ち込んだローレンツになんと声を掛けたものかと悩んでいると、ふと、背後から声がした。
「あのう……。馬車の中に、この紙が飛んできて……」
「マリー!」
馬車で待っているように言われたものの、飛んできた書類をどうすべきか迷って出てきたのだろう。おずおずとやってきたハイデマリーを背後に隠すように、エルネスタはローレンツの前に立ちはだかる。
だが、ローレンツは興味津々と言った様子で身を乗り出し、ハイデマリーの顔を覗き込んできた。
「わあ、可愛いお嬢さんですね。親戚のお子さんですか?」
「そ、そうなの! 遠縁の子を預かっていて……」
「――ん? でも、この子、なんか……」
すん、とローレンツが鼻を鳴らす。
まずい、と反射的に冷や汗が背中を伝った。
魔術師が秘めた魔力にはそれぞれ、独特の気配がある。その感じ方は様々だが、確かローレンツは『匂い』で他人の魔力を判断できるのではなかったか。
「ベリーとミントの香り……。先輩とまったく同じ……?」
「と、遠縁だからそういうこともあると思うわ」
「そうかもしれませんけど……。やけに先輩と顔、似てませんか?」
「と、遠縁とはいえ、血が繋がってるわけだし……」
「それに先輩、さっきこの子のこと〝マリー〟って呼んでましたよね。確か先輩の、亡くなったお母さまの名前って……」
エルネスタは嘘が下手だ。
そしてローレンツは、うっかり屋だがこういう時の勘は鋭い。
必死で目を泳がせるエルネスタを、ローレンツがじっと見つめてくる。
「先輩……。僕に、何か隠してますよね?」
半ば確信を持った声でそう問いかけられ、エルネスタはとうとう誤魔化すことができなくなってしまった。
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