幕間 ヴィンフリートの苦悩3
結婚するなら誰が相手でも変わりないなんて、とんでもない思い違いだった。
(結婚するなら、彼女とがいい)
エルネスタは春風だ。
仕事に打ち込み、淡々と日常を過ごすヴィンフリートの冷め切った心に鮮やかな香りを吹き込む、優しい春風。
しかしヴィンフリートがどんなにそう願ったところで、婚約者のいる彼女と結婚できるはずなどない。
その上、彼女はローゼンミュラー侯爵家の令嬢。この国で最も古い歴史を持つ、名門貴族の娘なのだ。結婚など、分不相応な夢にもほどがある。
そもそもエルネスタとて、結婚するならこんな無骨な軍人ではなく、もっと洗練された貴公子のほうがいいに決まっている。
彼女のことは綺麗さっぱり諦めなければならない。
夜会でのできごとを理由に、エルネスタがエッカーマン男爵から婚約破棄を告げられたことを知ったのは、それから一週間後のことだった。
貴族社会において、婚約破棄は不名誉なことだ。それが女性であるならなおさら。
そしてあのエッカーマン男爵のこと。今頃社交界では、エルネスタに関するありもしない悪評が広まっていることだろう。
(俺のせいだ……)
ヴィンフリートは、ひたすらに己を責めた。
自分が夜会になど行かなければ、彼女がそんな目に遭うこともなかったのに。
けれど心の奥底で、どこかそのことに安堵する自分がいることにも気づいていた。
なんて醜い男なのだろう。好意を抱いている女性が、他の男と結婚する姿を見ずに済んだことに、喜びを覚えるなんて。
こんな自分は、やはりエルネスタには相応しくない。
ヴィンフリートは今すぐにでも求婚したい気持ちを押し殺し、エルネスタにもっと相応しい、素敵な縁談相手が現れることを祈った。
姿を見れば未練が募るだろうからと、夜会にはもう二度と行かないと心に決め、祈って、祈って、祈って――。
そして彼女が三度目の婚約破棄をされたと同時に、神頼みを止めた。
世の中の男どもは、なんと見る目がないのだろう。
そして神は、どうして彼女に相応しい相手を与え給わぬのか。
(もういい。神など頼らず、俺がエルネスタ殿を幸せにする)
相応しいか相応しくないかなどと、生ぬるいことを言っている場合ではない。相応しくないのならば、相応しくなるしかないのだ。
ヴィンフリートは早速国王の許を訪れ、エルネスタとの縁談を後押ししてくれるよう頼んだ。
一般にはあまり知られていないが、国王はかつて第二王子だった時代、身分を隠し軍に所属していたことがある。そこで偶然同じ隊に所属していたヴィンフリートと仲良くなり、今でも交流が続いているというわけだ。
教会関係者に聞かれれば不信心者と叱られるかもしれないが、少なくともこの一件に関して、国王は神より頼りになった。
「お前には軍時代、命を救われた恩があるからな。それにしても、筋肉馬鹿のお前があの糸杉令嬢に求婚とは、彼女に憧れるご令嬢たちの反応が楽しみだ」
そう言って笑いながら、ローゼンミュラー侯爵へ書簡を出してくれた。
当時、エルネスタには新しい婚約者がいたが、きっとその婚約も白紙になるだろうと踏んでのことだ。
そして予想通りエルネスタは四度目の婚約破棄をされ、ヴィンフリートとの縁談を承諾してくれた。
返事を聞いた時は、舞い上がりそうだった。柄にもなく鼻歌を歌いながら、部屋中を飛びはねて回ったことは誰にも内緒だ。
求婚を承諾してくれたということは、エルネスタは初めて出会った時のことを覚えてくれているのだろうか。きっとそうだ。
そして、少なくとも『結婚してやってもいい』と思う程度には、ヴィンフリートのことを好意的に見てくれているに違いない。
ヴィンフリートは早速、エルネスタを迎え入れるためのさまざまな準備に取りかかった。
結婚式を挙げる教会の予約や、招待客に振る舞うための晩餐の手配。婚礼衣装や装身具の支度。
奥方のための部屋はエルネスタのために内装を一新し、女性が好みそうな家具、調度品、小物に絵画を運び込んだ。
エルネスタは喜んでくれるだろうか。笑顔を見せてくれるだろうかと、期待に胸を膨らませながら。
後になって考えれば、当時の自分は初恋に浮かれるあまりどうかしていたとしか思えない。
あんなに美しい令嬢が、理由もなくヴィンフリートの求婚に応えてくれるなんて、あるはずがないのに。
それを痛いほど思い知らされたのは、無事に結婚式を終えた日の晩。
寝室で待つエルネスタの許へ、吐きそうになるほど緊張しながら出向いた時のことだった。
「閣下、ふつつか者ではございますが、これから末永くよろしくお願いいたします」
寝台の端に腰掛けていた彼女は、ヴィンフリートの姿をみとめるなり深々と頭を下げた。
婚礼衣装姿の時もそうだったが、白い薄絹で出来た寝衣に身を包んだ彼女は神々しいほどに美しく、まともに目を合わせられない。
「……ヴィンフリートでいい。俺たちは夫婦になったのだろう」
震えそうな声でなんとかそれだけを口にすれば、エルネスタが小さく笑った気配がする。
「そういえばそうでした。――ヴィンフリートさま」
「な、なんだ」
柔らかな声で名を呼ばれ、思わず声が上ずる。
心臓の音がうるさくて、相手に聞こえてはいないだろうかと心配になった。
エルネスタも同じように緊張しているのだろか。
ちらと様子を窺うと、彼女はなぜか――試合に臨む前の武人のような引き締まった表情をしていた。
「此度の縁談は、新興貴族と血統貴族の関係を修復するために陛下が進められた、重要な政略と存じます。不承私、精一杯お役目に取り組み、自らの責務を果たして参りたい所存でございます」
キリッ、と擬音が聞こえてきそうなほど凜とした表情で告げられ、ヴィンフリートの脳が思考を停止する。
政略、お役目、責務。
一体エルネスタは何を言っているのだろうか。
立ち尽くすヴィンフリートに追い打ちを掛けるように、彼女が再び口を開く。
「このような任務は初めてのことで、何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが、オルヴァン王国の平和と未来のために、何卒ご指導、ご鞭撻を賜りたく――」
「っ、もういい」
自分との結婚を『任務』と言い切られたことに傷つきつつ、ヴィンフリートはそれでも一縷の望みを捨てきれなかった。
「ところで君は、二年前の夜会での出来事を覚えているか? ほら、ベッカー夫人の屋敷で開かれた、彼女の姪をお披露目するための」
「え? 申し訳ございません。あいにくですが、あの頃は色々な夜会に参加していたもので……」
その場で崩れ落ちなかったのは、ほとんど奇跡だと思う。
ヴィンフリートにとっては一生ものの思い出でも、エルネスタにとっては、記憶にも残らないような出来事のひとつでしかなかったのだ。
そしてこの局面で『君のことが好きだから求婚した』と言い出せるほど、ヴィンフリートは図太くなかった。
「あの、ヴィンフリートさま……?」
「俺は自分の部屋で寝る。エルネスタ殿も今日は早く寝なさい」
心配そうなエルネスタに背を向け、ヴィンフリートは足早に部屋を出た。
半泣きになりつつ部屋へ戻り、寝台にうつ伏せで倒れ込む。
気力も体力もすべてが身体から抜け落ち、もう起き上がれる気がしなかった。
(俺はなんてめでたい男だったんだ……)
エルネスタが貴族としての義務感やら使命感で結婚を決めたとも知らず、彼女との新婚生活に勝手に心躍らせ、期待して。
恋だ愛だと浮かれていた男たちの気持ちが、今ならわかる。
あまりにも惨めな初恋の終わりに、その日ヴィンフリートは落胆と悲しみのあまり、一睡もできなかった。
そして翌朝、心に決めたのだった。
エルネスタとは、清い間柄でいよう。彼女にいずれ好きな男ができた時、彼女になんの瑕疵もなく再婚できるように。
顔を見れば想いが募るばかりだからと、仕事を理由にエルネスタを避けて避けて、避け続けて。
「私は十年後の未来からやってきた、お父さまとお母さまの娘です」
やがて、ふたりの娘と名乗る可愛らしい女の子が玄関扉からひょっこりと顔を出し、それをきっかけにふたりの関係は大きく変わることになるのだが――。
それはまだ、誰も知らない話だ。
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