幕間 ヴィンフリートの苦悩2
青年は細身で整った容姿をしており、いかにも貴族らしい上品な仕立ての装いに身を包んでいる。
見たことのない相手だ。
と言っても、滅多に社交の場に顔を出さないヴィンフリートに、貴族の知己などそうそういるはずもないのだが。
(やはり、社交の場になど来るものではないな)
改めて、母に言われるがままここまでやってきたことを後悔する。
公の場で、新興貴族を愚弄するためだけに声を掛けてくるような輩を相手に、どう出たものか。
とりあえず黙ったまま相手の出方をうかがっていると、青年はニヤニヤしながら、周囲に聞こえるような大声で言った。
「おっと。似非貴族は、社交の場のマナーをご存じないらしい。さすが礼儀知らずの武門一族。普通夜会に出席する際は、誰が参加するか調べて、名前を覚えてくるものだが……。僕が誰なのかもわからないのだろうな」
クスクスと、広間中から笑い声が上がる。
ヴィンフリートは空になったワイングラスをすぐ近くにいた給仕に渡すと、青年の身につけているカフリンクスにさっと目を走らせた。
確かにヴィンフリートは仕事一筋だが、伯爵家当主としての責任を軽んじているわけではない。
だから今回の夜会に参加する招待客の紋章は一通り覚えてきたし、それぞれの簡単なプロフィールも頭にたたき込んできた。
(エッカーマン男爵か。厄介な相手だな)
カフリンクスに刻まれている紋章から青年の正体を知ったヴィンフリートは、内心でため息をつく思いだった。
ハンス・エッカーマン。彼は今でこそ男爵だが、彼の父親である現フリッツ侯爵が亡くなれば、そのまま侯爵位を継ぐこととなる。
上位貴族におもねるつもりは毛頭ないし、新興だの血統だのも正直興味はない。もともと駆け引きだとか腹の探り合いだとか、そういうものには向いていないのだ。
もちろん言い返すことは簡単だが、やり込めて満足するのは一瞬のこと。問題はその後だ。
国の中枢において絶大な権力を有する血統貴族に比べ、新興貴族の立場はまだまだ危うい。
考えなしに相手に足を引っ張る口実を与えれば、ヴィンフリート本人だけでなく新興貴族全体に迷惑がかかってしまうかもしれない。
ここは穏便に、事を荒立てないようこの場を立ち去るのが正解だろう。
「失礼した、エッカーマン男爵。少々酔いが回ったらしく、そろそろ帰ろうとしていたところです」
男爵は、名を呼ばれたことに一瞬唖然とした表情を見せた。しかし、その後すぐ、気を取りなおしたように小馬鹿にした笑みを浮かべる。
「おっと、高級なワインは野蛮人の口には合わなかったらしい。そういえば聞いたことがあるぞ、新興貴族はかつて、ワインの代わりに豚の血を飲んでいたとか。おお、恐ろしい」
「……」
「おや、もしかして怒りで言葉も出ないのか? 気を悪くしたなら申し訳ない」
相手は、ヴィンフリートがカッとなって手を出すことを期待しているのかもしれない。
しかし見え透いた挑発に乗るほど愚かではないし、このような低俗な悪口に腹を立てるほど短気でもない。ただ、心底呆れて声が出ないだけだ。
「――従者を待たせているので、これで」
「おい、待てよ! 僕を無視するつもりか? 新興貴族はやはり礼儀知らずだな!」
きびすを返したヴィンフリートの肩を、男爵が苛立ったように掴む。
「礼儀知らずなのはあなたのほうです」
若い女性の声がふたりの間に割って入ったのは、ヴィンフリートが仕方なく振り向いたのとほとんど同時だった。
決して大きな声ではない。むしろ落ち着いた、静かな声だ。
それなのになぜか、その響きには思わず耳を傾けてしまうような、ざわめきを収めてしまうような不思議な力があった。
声の主を確かめ、その若さに驚く。
彼女はまだ十五、六の少女だった。
すっと伸びた背筋に、知的な印象を与える紺碧の瞳。華やかな美人ではないが、まっすぐ佇む姿は凜とした気品に満ちあふれており、素直に美しいと思える。
「先ほどから様子を窺っておりましたが、その方に突然失礼なことを仰ったのはハンスさまではありませんか」
大勢の貴族たちの前で、少女は物怖じすることもなく堂々と男爵を非難した。
女性は男性の影に隠れ、大人しく振る舞うことが美徳とされる貴族社会において、これは非常に珍しいことだった。
「私の婚約者が無礼な態度を取りましたこと、大変申し訳ございません」
その上、彼女は男爵の代わりに深々と頭を下げ、非礼を謝罪してくる。
もちろん、男爵が婚約者のそんな行動を許容するはずがない。
「なっ――、みっともない真似をするなエルネスタ! 僕の婚約者でありながら、似非貴族に頭を下げるなど恥ずかしいと思わないのか!」
「似非貴族ではありません。戦において多大なる貢献をなさった結果、当時の国王陛下が正式に貴族とお認めになられた方々でしょう。ハンスさまは、王家をも侮辱なさるのですか」
その言葉に、先ほどまで男爵の発言に同調していた者、男爵と同じくヴィンフリートを馬鹿にしていた者たちが気まずげにうつむく。
「武門一族の活躍がなければ、今のオルヴァン王国はありません。我々が平和な生活を送れるのは誰のおかげか、今一度お考えになってください」
エルネスタの言葉は正論だ。ただ、ヴィンフリートの知る中でそれを口にした貴族は、彼女ひとりだけだった。
婚約者から諭され、エッカーマン男爵はこれ以上ないほどの屈辱を感じたようだ。
「この――、賢しらな女がっ。よくも僕に恥をかかせてくれたな!」
顔を真っ赤にしながら捨て台詞を吐き、肩をいからせその場を立ち去る。
「ハンスさま!」
「――ま、待ってくれ」
気づけばヴィンフリートは、急いで婚約者を追いかけようとするエルネスタの手を握っていた。
手袋越しにも柔らかくて細い、繊細な女性の手は、ひんやりと冷くて少しだけ震えていた。
ヴィンフリートはそこで初めて、彼女がどれほどの勇気を振り絞って自分をかばってくれたのかに気づく。
大勢の貴族の前で、婚約者を非難する。それが若い女性にとって、どんなに覚悟のいることだったか、少し考えれば分かる話だったのに。
足止めされた彼女が驚いたように振り向き、ヴィンフリートは掴んだ手を慌てて離す。
「す、すまない、その――ありがとう。庇ってくれて……」
もっと気の利いた礼を口にできればよかったのだが、母や使用人以外の女性とほとんど口を聞いたことのないヴィンフリートには、それだけで精一杯だった。
朴訥な礼の言葉に、エルネスタが控えめな笑みを零す。
「いいえ、当然のことをしたまでですわ。それでは、失礼いたします」
そうして淑女の礼を取り、今度こそ男爵を追いかける。
自身の行動に酔いしれることも、恩着せがましい態度を取ることもなく、ヴィンフリートの胸にこれまで感じたことのない鮮烈な感情を残して。
『あなたはまだ若いし、人生のすべてを知った気になって、自分の進むべき方向を決めるには早すぎる』
ヴィンフリートはその時初めて、母の言葉の意味を知った。
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