第5話

 ヴァレンシュタイン邸にハイデマリーを住まわせるにあたって、彼女の正体を打ち明けねばならぬ人がもうひとりいた。

 ヴィンフリートの母、ルイーゼだ。

 使用人たちには遠縁の娘をしばらく預かるとでも説明すればいいが、身内であるルイーゼにはそういうわけにもいかない。


 かくしてエルネスタとヴィンフリートは娘を伴い、離れで暮らすルイーゼの許へ出向いた。

 不思議な魔法で未来からやってきた孫を前に、どんな反応を返すだろうか。

 そんな不安は杞憂に過ぎなかったと、すぐにわかった。

 彼女は突然現れた初孫の存在に狂喜乱舞し、ハイデマリーを抱きしめながら涙さえ流してみせたからだ。


「まあ、まあ、まあぁ……! なんて可愛らしいのかしら! こんなに可愛い子が孫だなんて、本当に嬉しいわ。エルネスタさん、本当にありがとう。よくやってくださったわ」

「いえ、私が産んだわけではないのですが」


 思わず否定したが、舞い上がる義母の耳にはまったく届いていないようだ。

 

「ねえ、マリーちゃん。おばあさまと一緒にお菓子食べましょうか? 美味しいお菓子がたくさんあるのよ」


 でれでれと相好を崩しながら、ハイデマリーに話しかけ続けている。


「母上、マリーは先ほどお菓子を食べたばかりです。虫歯になっては困ります」

「まあ、そうなの? だったら町へ新しいドレスでも買いに行きましょうか。孫と一緒にお買い物をするのが夢だったのよ」

「先ほども申し上げましたが、未来からやってきたことを周囲に知られれば、マリー自身に危険が及びます。町で知人にでも会ったら、母上はついうっかり口を滑らせてしまいそうですので、許可できません」


 ヴィンフリートが義母からハイデマリーを引き剥がすのを見て、エルネスタは密かに安堵のため息をついた。

 嫁という立場では口出ししにくかったが、エルネスタも義母の口の軽さは少し心配だったのだ。

 しかし義母自身は、心外だと言わんばかりに頬を膨らませる。


「そんなことしないわよ! まったく、マリーちゃんと違って可愛げのない子ねぇ!」

「いい年して、頬を膨らませないでください」

「失礼ね、私はまだ四十代よ」


 息子から老人扱いされ、義母が半眼になる。

 十七歳でヴィンフリートを産んだという彼女は今年で四十四歳となるが、三十代と言っても差し支えのない若々しさを誇っているのだ。


「ねーえ、ところでマリーちゃんに聞きたいことがあるの」


 しばらく息子に向かってぶつぶつと文句を言っていた義母だったが、やがて気を取り直したようにマリーのほうを向き、意味深な笑みを浮かべる。

 ――何か嫌な予感がした。


「なんでしょうか、おばあさま」

「あなた、九歳って言っていたわよね。お誕生日はいつ?」

「お義母さま!」

「母上!」


 彼女の質問の意図を正しく察し、エルネスタとヴィンフリートの声が重なる。しかし制止するのならば、義母ではなくハイデマリーのほうにすべきだった。


「水瓶月の三日です」


 祖母の問いかけに、ハイデマリーは実に素直に答える。

 その答えを受け、ルイーゼは指を折りながら小さく独り言を呟き始めた。


「あら、まあ。ということは、ええと一、二、三……。いやだ、あなたたち、二ヶ月以内に子供を作らないと間に合わないわよ」


 わざと深くは考えないようにしていた話題に触れられ、喉の奥で「ん゛っ」と妙なうめき声がこぼれた。

 動揺してはいけない、ローゼンミュラーの人間として、常に冷静沈着に行動しなければ。

 自分へ向かって懸命にそう言い聞かせるが、今回ばかりはまるで上手くいかない。


「ええと、お義母さま、そのお話はまた今度……。今は、マリーを未来へ送り返すことだけを考えて……」

「そんなのんきなことを言っている場合ですか。あなたたちが急いで子作りしないと、将来マリーちゃんが産まれないかもしれないのよ? それでもいいの?」


 よくはない。よくはないけれど、でも、想像できないのだ。

 自分とヴィンフリートが、今更そんな仲になるなんて。


(ヴィンフリートさまはどう思っていらっしゃるのかしら)


 助けを求めるようにヴィンフリートへ視線を送ったが、彼もまた陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱく開閉するばかりで、あまり役に立ちそうになかった。

 そんな微妙な空気の中、助け船を出してくれたのはハイデマリーだ。


「お父さま、お母さま。マリー、なんだか眠くなってきちゃいました」

「まあ、それは大変。お屋敷に戻ってお昼寝しましょう、それがいいわそうしましょう。お義母様、マリーもこう言っていることですし、私たちはそろそろ失礼いたしますわ」


 彼女が空気を読んでくれたのか、あるいは本当に眠くなったのかはわからないが、ともかくこの好機を逃す手はない。

 エルネスタはこれ幸いにと早口でまくし立てると、ハイデマリーの手を取り、ついでにまだどこかぼうっとした様子で立ち尽くしているヴィンフリートの袖を引っ張る。


「ヴィンフリートさま、行きますよ……!」


 小声で促すと、彼ははっとしたようにまばたきを繰り返し、ぎこちなく頷いた。


「あ、ああ。それでは母上、失礼します」

「おばあさま、またね!」

「あ、ちょっと、あなたたち――」


 ルイーゼの呼び止める声を無視し、エルネスタたちは慌ただしく屋敷へ戻る。

 先ほど眠いと訴えたのは本当だったようで、離れから屋敷へ戻る道中、ハイデマリーは何度も眠そうに目を擦っていた。

 何もわからぬまま強制的に過去へ飛ばされ、きっと自分で思っていた以上に疲れていたのだろう。

 ひとまず客間のベッドに寝かせると、彼女はすぐうとうとし始め、やがて深い眠りにつく。


 その安らかな寝顔を見ていると、むずがゆいような、愛おしいような、なんとも不思議な気持ちがこみ上げてきた。

 痣を見せられた時よりも、魔力を探った時よりもずっと、彼女が自分の血のつながった娘であるのだと実感するような思いだった。


 ハイデマリーが眠りについてからも、エルネスタはしばらく慣れぬ手つきで彼女の頭を撫で続けた。

 しかし不意に視線を感じ、顔を上げる。

 いつからそうしていたのか、複雑そうな顔でヴィンフリートがこちらを見つめていた。


「本当に、俺たちの娘なんだな……」


 眠るハイデマリーの姿を前に、ヴィンフリートもまたエルネスタと同じような思いを抱いていたのだろう。その声には、なんとも名状しがたい感慨が滲んでいるように感じられた。


 エルネスタは改めてヴィンフリートと向かい合う。自分たちの置かれている状況を考えると酷く気まずかったが、話をするなら今しかないと思った。

 

「率直に伺います。ヴィンフリートさまは、私と本当の夫婦になるおつもりはありますか?」

「な……っ。そ、それは、その、急に言われても……心の準備というものが……」


 歯切れの悪い返事をしながら、ヴィンフリートが視線をさまよわせる。

 困惑を隠そうともしない様子に、エルネスタは少しだけ寂しく思った。

 やはり彼にとって、この結婚は望まないものだったのだと、改めて現実を突きつけられた気持ちになったからだ。


 だが、ことはふたりだけの問題では済まない。

 先ほどは思わず逃げてしまったが、義母の言ったことは正しかった。

 たとえハイデマリーを無事未来へ送り返せたとしても、ふたりの選んだ道次第によっては、彼女が存在する未来は消えてしまうのだ。

 ヴィンフリートも、頭ではそれを分かっているのだろう。


「君は……どうなんだ。その、俺の子を……」

「正直、今更ヴィンフリートさまとどうこうなるなんて、想像もできません。ですが……マリーが消えると知っていながら、簡単にその道を選択することなんて、私にはできない」


 ハイデマリーを産んだのは未来の自分だというのに、不思議な話だ。けれどエルネスタの中には確かに、娘への愛情が芽生え始めている。


「エルネスタ殿……。俺も、同じ気持ちだ。俺たちとマリーにとって、最善の道を選びたい」


 しんみりと、ヴィンフリートが頷く。

 それを聞いて、エルネスタは心底安堵した。こういうことは一方の意見のみではなく、双方納得の上で進めなければならない。そしてふたりの意見が一致しているならば、話は早い。


「それを聞いて安心いたしました。――それでは、サクッとひと思いになさってください」 

「……は?」

「気の重い仕事こそ早く済ませと申すでしょう?」

「気、気の重い仕事……」

「というわけで、さあ、ご遠慮なさらず。あ、さすがにマリーのいる前では差し障りがありますので、まずは場所を私の部屋へ移しましょう! さあ、ヴィンフリートさま」


 想ってもいない女性を抱くなんて、きっと彼にとってはとんでもない苦痛に違いない。

 だから、少しでも気が楽になるようにと気を遣ったのに。


「ふ、ふ、ふざけるな――――――!」


 エルネスタはなぜか顔を真っ赤にしたヴィンフリートに怒鳴られ、そこから「もっと自分を大事にしろ」だの「そういうことはもっと互いを知ってから」だのと、小一時間説教を受ける羽目になったのだった。

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