第3話

 ――お父さま。

 ――お父さま。

 ――お父さま。


 耳の奥で、何度もその単語が鳴り響く。


 他に女性がいることは覚悟していたが、隠し子は想定外だった。

 自分は女にしては肝が据わっているほうのはず。しかしさすがにこの事態には、エルネスタも動揺せざるを得ない。


「ええと、ヴィンフリートさま……」


 飛びつかれた勢いのまま女の子を抱き留め、いわゆる『抱っこ』をしている夫へ、エルネスタは居心地の悪い思いで声をかけた。


「言い出しづらいのはわかります。ですがこういった重要なことは、できれば結婚前にお知らせいただけると助かるのですが」


 やや震える声で、それでも努めて冷静さを装いながら、至極まっとうな意見を口にする。

 今更庶子がいることに文句は言わないが、知っているのと知っていないのとでは、結婚前の心構えも変わってくる。

 しかしヴィンフリートは、さも心外だと言わんばかりにきっぱりと否定した。


「違う。俺の子ではない」


 もしこれが演技だとしたら、彼はたいした名優だ。本気で信じてしまいそうになる。

 しかし、である。

 エルネスタは改めて女の子へ目を向け、その姿をじっくり観察した。結果。


(――うん、ヴィンフリートさまの娘だわ)


 ヴィンフリートに飛びついたはずみで落ちた帽子の下から現れたのは、肩まで伸ばした銀の髪。

 オルヴァン王国では滅多に見ない色だ。

 というより、ヴィンフリートと義母以外にその髪色をしている人間を、エルネスタは見たことがない。


(そういえば、お義母さまは異国の方だったわね……)


 きっとこの子は、ヴィンフリートが外で囲っている女性に産ませた子供なのだろう。

 それなのに彼は、この期に及んで『自分の子ではない』などとシラを切ろうとしている。

 そう思い至るなり、元々離れかけていた心の距離が、ものすごい速度で更に離れていくような錯覚に見舞われた。


「閣下」

「か、閣下?」

「ご心配なさらなくとも、私はこの子に意地悪なんていたしませんわ。そんなことより」

そんなことより、、、、、、、!?」

「ヴァレンシュタインの血を引く御子を外に住まわせるなんて、いけません。どうか私に遠慮することなく、母君と共に本邸へお招きになり、相応の教育を受けさせてくださいませ」


 庶子だからと日陰者の身にしてしまうのは、この子が可哀想だ。

 エルネスタはヴィンフリートの正妻であるものの、彼が愛しているのはこの子の母親である。

 そしてこの先、エルネスタがヴィンフリートの子を産むことはないだろう。

 ならばエルネスタは、立場をわきまえなければならない。

 ヴァレンシュタインの跡継ぎを産むかもしれないその女性に対し、お飾りの妻として敬意を表すのだ。


「ねえ、小さなお嬢さん。安心してね。これからあなたは、このお屋敷で――」


 ヴィンフリートの腕の中に収まっている女の子に近づき、顔を覗き込む。

 できるだけ優しい口調を心がけて話しかけた。しかし、皆まで言い終えるより早く、女の子が声を上げる。


「お母さま!」


 それは嬉しそうに、弾んだ表情で。まっすぐにエルネスタを見つめながら。


(まあ、可愛い。……ではなくて。お母さま? 誰が?)


 とっさに後ろを振り向いたが、そこに誰かいるはずもなく。

 エルネスタはしばらく硬直状態で、女の子を凝視した。そして、あることに思い至る。


(そういえばこの子、どこかで見たことがあるような……?)


 一体どこだっただろうか。

 記憶を探っても心当たりは見つからず、困り果てて視線をさまよわせたエルネスタの目に、ふと、玄関脇にある全身鏡が飛び込んでくる。

 そこに映っていたものを見て、エルネスタはその既視感の正体にようやく気づいた。


(この子、小さな頃の私にそっくりだわ――!?)


§


 茫然自失状態からなんとか我に返ったエルネスタは、ひとまず状況を整理するため、ふたりをティールームへ押し込んだ。


「信じがたいのも無理はありません」


 そして今、くだんの女の子はエルネスタの用意した紅茶をすすり、お菓子を食べ食べ、やや大人っぽい口調でそう言った。

 その年齢に見合わない喋り方が、幼い頃の自分を彷彿とさせることに、エルネスタは気づかないふりをしたかった。


「でも、本当なんです。私は十年後の未来からやってきた、お父さまとお母さまの娘です。信じてください」


 彼女の表情は先ほどから真剣そのもので、とても大人をからかおうとしているとか、たちの悪いいたずらのようには見えない。

 

(もしかして、本当に……?)


 そんなことはありえないと思う一方で、女の子の言うことを信じそうになっている自分がいる。


「証拠もお見せできます」


 言って、女の子はワンピースの襟元から小さなネックレスを取り出した。

 どうぞ、と差し出されたそれを、エルネスタとヴィンフリートは額を付き合わせるようにしてまじまじと観察する。


 細い鎖に通されているのは、男物の指輪だった。

 土台はプラチナで出来ており、石座にはブルー・ダイヤモンドが埋め込まれている。

 エルネスタはとっさに、自分とヴィンフリートの左手に交互に目をやった。女の子の持っているもののほうがやや古びた印象だが、結婚式の時、互いの薬指にはめた指輪とそっくりだったからだ。


「まさか」


 思わずといった様子で小さく呟いたヴィンフリートが、指輪の内側を確認する。エルネスタもつられて覗き込んだ。


『V.V』


「――ありえない」


 そこに彫られた己の頭文字を認め、ヴィンフリートが低く唸った。

 この指輪は、貴族御用達の店で特別にデザインしてもらった物だと聞いている。精巧な模倣品ということも考えられるが、ブルー・ダイヤモンドもプラチナも、偽物とは思えない輝きを放っていた。

 いたずらに掛ける金額としては、度を超している。


 それでもなお疑いの目を向けるふたりに、女の子はもうひとつの『証拠』を提示した。


「まだお疑いなら、これを見てください」


 髪をかき上げると、細く華奢な首筋があらわになる。

 そこには、蝶の形によく似た小さな痣があった。

 見間違うはずもない。これは、ローゼンミュラーの子孫が生まれ持つ、魔術師の血の証だ。エルネスタも同じものを持っている。


 はっと息を呑んだエルネスタとは正反対に、ヴィンフリートは胡乱げな顔をしていた。

 

「その痣がどうした?」

「お父さまもご存じでしょう? お母さまの太ももに、この痣があることを」

「――は?」

「んもう! 何度も一緒にお風呂に入ってたじゃないですか!」


 やや焦れたように女の子が唇を尖らせ、ヴィンフリートが絶句する。察しの悪い父親をやり込める娘――といった様相だ。

 しばしの沈黙が流れ、彼は苦虫をかみつぶしたような顔でエルネスタに問いかけた。


「……あるのか」

「ええ」

「そうか……」


 それきり、彼は再び黙り込んでしまう。


 エルネスタは神経を研ぎ澄ませ、女の子から漂う魔力を密かに探った。

 魔術師が秘めた魔力にはそれぞれ、独特の気配がある。

 人によってそれは色だったり、香りだったり、あるいは音だったりとさまざまな感じ方をするらしいが、エルネスタの場合は色だ。

 

(青と金……。間違いない、ローゼンミュラー特有のものだわ)


 くらくらと目眩のするような感覚を覚えながら、エルネスタはそれでもなんとか踏みとどまって、女の子へ声をかけた。

 

「ええと、あなた……。ごめんなさい、お名前は?」

「ハイデマリーです! お父さまとお母さまは、わたしのことをマリーと呼びます!」


 元気よく放たれた名を聞いて、エルネスタは宙を仰いだ。

 それはエルネスタの亡き母の名前であり――。いつか自分が女の子を産むことがあれば名付けようと、密かに考えていた名前でもあった。

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