第2話
エルネスタとて年頃の娘。恋愛に興味がなかったわけではない。
しかし貴族にとっては、それより優先すべきものがある。
たとえ政略結婚であろうと、夫を愛し、尊敬し、手を取り合ってこの国のために身を捧げよう。
しかし、そんな決意は結婚早々打ち砕かれることとなる。
「おはようございます、ヴィンフリートさま」
早朝、ヴァレンシュタイン邸の玄関にて。
エルネスタは物音ひとつ立てず仕事へ向かおうとしていた夫の大きな背中へ、そっと声を掛けた。
やや間があって、彼が振り向く。
きっちりと撫でつけたまばゆい銀の髪が光をはじいてきらめき、やがて血のように赤い目がエルネスタの姿を捉えた。
(まあ、なんて見事な顰め面)
元々愛想のある方ではないようだが、エルネスタを前にした時はその比ではない。
まるでその鋭い眼光で、相手を石像に変えてやるとでも言わんばかりだ。
「……エルネスタ殿。何か用か」
「お見送りのご挨拶をしようと思っただけです。それにしても、まだ使用人すら起き出していないというのに、ずいぶんとお早いお目覚めですね」
「何が言いたい」
「いいえ。ただ、昨日も一昨日も、そのまた前日もお帰りが遅かったでしょう? ここに嫁いでからというもの、お帰りなさいもおやすみなさいも言えず、心を痛めていたところです。父から軍のお仕事の大変さを聞いて、ある程度は知ったつもりでおりましたが、将軍閣下がここまで忙しいお立場だなんて想像もしておりませんでしたわ」
意訳すると『深夜まで新妻を放置して一体何をなさっていたのかしら。仕事じゃないことはもちろんわかっております』である。
中将が責任ある立場であることは重々承知だが、ヴィンフリートは本来なら新婚休暇を取るべき期間だ。
魔術師団長である父の近況と比べてみても、連日深夜まで根を詰めねばならない仕事があるとは到底思えない。
エルネスタの言葉が心配ではなく嫌味であることは、ヴィンフリートにもしっかり伝わったらしい。
その証拠に、彼の表情はますます険しさを増していく。
「そんなことを気にする必要はない。君は俺に構わず、好きなように過ごしていい。入り用なものがあるなら使用人に言えばいいし、相談事があるなら離れの母に言えばいい」
つまり、お前の知ったことではない。何でも好きなことをさせてやるから、口出しするなと言いたいのか。
歩み寄る気配が微塵も感じられない夫の態度に、さすがのエルネスタも笑顔が引きつりそうになる。
「まあ、ありがとうございます。そうそう、そういえばそのお義母さまのことですけれど、昨日お茶をご一緒した時に、おかしなことをおっしゃっていました」
「おかしなこと……?」
「孫はまだか、と」
「ごっほ……!」
なぜか咳き込んだヴィンフリートを尻目に、エルネスタは頬に手を当て、さも困ったように眉を下げる。
「私たち、子供ができるようなことどころか、まだ新婚夫婦らしいことを何もしておりませんのに。ああ! でもそういえばお義母さまは、私たちの寝室が別であることさえご存じありませんでしたわね」
「エルネスタ殿……。その話はまた今度……」
エルネスタと『そういうこと』になるのがよほど嫌なのか、ヴィンフリートは地獄の底から這いずり出てくる悪魔のような唸り声で話を逸らそうとする。
だが、結婚して半年。
早朝に出て行ったかと思えばエルネスタが寝静まった頃に帰宅し、たまに顔を合わせたかと思えばそそくさといなくなってしまう。もちろん食事は毎食別だし、夫婦らしい会話など皆無。
初夜どころかキス、キスどころか抱擁すらしようとしない夫相手に、エルネスタの不満は爆発寸前だった。
これでは妻ではなく、単なる同居人である。なんのために結婚したのかわからない。
妻として誠実に務めようと思っていたのはエルネスタのほうだけで、ヴィンフリートは最初からこの結婚を歓迎していなかったのだろうか。
(そういえば初めて顔を合わせた時も、結婚式の時も、極力私のほうを見ないようになさっていたような……)
国王の定めた政略結婚だから、多少歓迎されなくても仕方ないと覚悟していた。だけど、こんなに避けるくらい悪いことを、自分は何かしただろうか。
――否。
そもそも会話を交わしたことすらほとんどないのに、嫌われる要素などあるはずがない。
だがもし、他に理由があるとしたら。
エルネスタには一つだけ、思い当たる節があった。
「ヴィンフリートさま、正直に答えていただけますか」
「な、なんだ」
「ヴィンフリートさまはもしかして、外に女性を囲っていらっしゃるのでは?」
「はっ!?」
ヴィンフリートが目を大きく見開き、動きを止める。
その様子が、エルネスタの目には図星を突かれて動揺しているように映った。
近頃よく聞く話だ。
政略結婚を定められた男性の心には別の女性がいる。その女性とは身分の違いやその他様々な事情により、一緒になることはできない。だから男性は仕方なく政略結婚を受け入れるものの、決して妻を愛することはしないのだ――。
「好きな女性がいらっしゃるのなら、最初からそうおっしゃってくだされば、私も心の準備というものができましたのに。ですが、過ぎたことは仕方ありません。私は分をわきまえ、お飾りの妻に徹することにいたします」
「な、にを訳のわからないことを! くだらないことを考えている暇があったら、マカロンでも食べていろ、大馬鹿者!」
せっかく『お飾りの妻でいい』と譲歩したというのに、なんという不条理。
父からもぶつけられたことのない罵詈雑言に、エルネスタの太い堪忍袋の緒がとうとう切れた。
何がマカロン。あんなもの、砂糖の塊ではないか。
「私、マカロンなんて大嫌いです! ああ、ご存じのはずないですわね! 何せヴィンフリートさまと私は、ご挨拶すらままならない夫婦ですもの!」
エルネスタは淑女らしくおしとやかに振る舞うことも忘れ、ついつい声を荒らげてしまう。
「っ……俺は、ただ――」
エルネスタがそっぽを向き、ヴィンフリートが何事か言いかけた、その時だった。
閉ざされていた玄関扉が外側から開き、思いも寄らぬ訪問者が現れたのは。
「あのぅ……」
扉の隙間からひょこん、と顔を出したのは十歳くらいの小さな女の子だった。
クリーム色のワンピースに、鍔広の黄色い帽子をかぶっている。
使用人が子供を連れてきたのだろうか。あるいは、近所の子が迷い込んだのか。
いずれにせよ、強面のヴィンフリートが相手では怖がらせてしまいそうだ。
エルネスタはきびすを返し、女の子に声を掛けようとした。
しかしそれより早く女の子がぱっと駆け出し、ヴィンフリートに飛びつく。
「お父さま、会いたかった!」
嬉しそうに、なんの迷いもなく、そう口にしながら。
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