冷え切った夫婦のはずですが、未来からやってきた娘が「お父さまとお母さまはとってもラブラブです」と言っています
八色 鈴
第1話
それは、某貴族の開いた夜会での出来事だった。
「エルネスタ。君との婚約をなかったことにしたい」
冷ややかな青年の言葉は、会場である大広間によく響いた。
周囲にいた招待客たちは会話をやめ、一斉にひそひそと囁き合う。
「まあ、また婚約破棄ですってよ」
「はやってるのかしら、婚約破棄。近頃よく見ますわねぇ」
「そうそう、確か先週も、ある男爵家のご令嬢が〝悪役令嬢〟だとかなんとか呼ばれて……」
人々の視線は、あるひとりの少女へ注がれていた。
意思の強さを感じさせるまっすぐな細眉に、紺碧の瞳。頭頂部でひとくくりにした黒髪に、紺の布地で仕立てられた細身のドレス。
女性にしては背が高すぎるからという理由で、揶揄を込めて『糸杉令嬢』と最初に呼んだのは誰だったか。
彼女は、エルネスタ・ローゼンミュラー。
ローゼンミュラー侯爵家の令嬢だ。
「はい、承知いたしました」
周囲の人間が固唾を呑んで見守る中、少女ははっきりとそう答えた。
普通、若い少女が婚約解消を持ち出されれば、もっと取り乱したり、驚いたり、あるいは泣いたりするものだろう。
しかしエルネスタの態度はどこまでも冷静で、落ち着いている。
「ええと、君、僕の話ちゃんと聞いてた? 僕は婚約をナシにしたいって言ったんだけど」
「ええ、もちろん聞こえておりますわ。婚約を反故にしたいということですね。それでは後日、契約破棄の書類を当家まで送っていただけますか? 顧問弁護士に確認をお願いした後、署名、捺印の上、貴家へ御返送させていただき――」
流れるように繰り出される事務的な台詞に、むしろ動揺したのは青年のほうだった。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って! 理由とか聞かないの?」
「伺ったところで、結果が覆るとは思えませんもの」
「そういうところだよ!」
「そういう……ところ……?」
エルネスタは頬に手を当て、困惑気味に小首を傾げる。
その瞬間、青年が苛立ったように声を荒らげた。
「動揺も驚きもすがりつきもせず、淡々と婚約破棄を受け入れて! 可愛げがないにもほどがある!」
「申し訳ございません、なにぶん初めての婚約破棄ではないもので……」
招待客のうちの何名かが、そういえばそうだった、と頷き合う。
そう。何を隠そう、エルネスタにとってこれは、通算四回目の婚約破棄なのである。
一々傷ついていては、心がいくつあっても足りない。
「はっ、こんな女じゃ婚約破棄したいと思われても仕方ないな。しかも周囲に令嬢たちまではべらせて! 僕よりモテるなんてズル……コホン、節操がないと思わないのか!?」
(なるほど、やっぱりそれが本音なのね)
びしっと突き立てられた指の先には、エルネスタを取り巻く華やかな令嬢たちの姿がある。
「きゃっ、こわーい」
「ああお姉さま、おいたわしい。またしても婚約者に裏切られて――」
「わたくしがお姉さまをお慰めして差し上げたい……!」
彼女たちは通称『エルネスタお姉さまを見守る会』の会員だ。
中性的で整った顔立ち。凜とした切れ長の目。長い手足がよく映える、細身の長身。
男性たちが敬遠するそれらの要素は、一部の女性たちにとってはひどく魅力的に映るらしい。
うっとりと頬を染めた令嬢たちがエルネスタの側にはべる光景は、まるで異国に存在するというハーレムのようだ。
「ありがとう、優しい皆さま。でも私は大丈夫、慣れていますから」
エルネスタ自身は、別段女性からモテようと思って振る舞っているわけではない。
普通にしているだけで、彼女らが勝手に頬を赤らめ、夢見る乙女の表情になるのだ。
「お姉さま……なんて逞しくていらっしゃるの……」
「あんなろくでなしなんて歯牙にもかけないのね。そんなところが素敵……」
そう、こんな調子で。
一方令嬢たちから非難の視線を向けられ、青年はますます歯ぎしりせんばかりの形相だ。
「とにかく! 君とはこれでもう終わりだ! 天才魔術師だかなんだか知らないが、その偉そうな態度にはうんざりなんだよ! 僕はもっと、繊細で愛らしくてたおやかで、笑顔が素敵で優しくて花が好きで、趣味はレース編みと読書、好物はマカロンって言いそうな令嬢と婚約するんだからな!」
「それは無……いえ、お眼鏡にかなう方が早く見つかるとよいですね」
ついつい口をついて出そうになった本音は、慌てて飲み込んだ。
「皆さま、お騒がせして申し訳ございませんでした。それでは、少し早いですがごきげんよう」
真っ赤になってわめく青年と、ざわつく招待客たちを尻目に、エルネスタは優雅に一礼して颯爽とその場を立ち去った。
§
「エルナ、また婚約を破棄されたそうだな」
翌朝、エルネスタは早速父の書斎に呼び出されていた。
たっぷりとした髭を蓄えた父の表情は重く、エルネスタもまた神妙な面持ちになる。
「申し訳ございません、父上。先方は、私に可愛げがないのが嫌なのだと――。ですがご安心ください。契約破棄に関しての書類を送付していただくよう、きちんとお伝えして参りましたから」
「そうか……」
少しでも父に安心してもらいたいと思って口にした言葉は、しかし空回ってしまった。
父はますます難しい顔になり、眉間の皺はペンの二、三本挟めそうなほどだ。
真面目で厳しい父のこと。娘の四度目の婚約破棄に、きっと頭を悩ませているに違いない。
(口には出さないけれど、家の恥だと思っていらっしゃるかもしれない)
ローゼンミュラー侯爵家は、ここオルヴァン王国において最も古い貴族の血統で、七大魔術師の家系だ。
現在魔術師団長を務めている父は、エルネスタが幼い頃から貴族としての矜持や心構えを厳しく叩き込み、常にローゼンミュラーの名に恥じぬよう、他の規範となるべく振る舞えと教えてきた。
『よいか、エルナ。人前で弱みを見せてはならない。どんな時でも誇りを忘れるな。敵は完膚なきまでに討ち滅ぼせ!』
一般的な令嬢教育とは、何かが違うような気がする。
そう気づいたのはずいぶん後になってのことだったが、ともかく父は男手一つで、エルネスタを立派に育て上げた。
そしてエルネスタも、父の期待に応えたい一心で頑張ってきたはずなのだが――。
(まさか結婚一つ、ままならないなんて)
後生に血を残すのは、高位貴族であり古き魔術師一族としての責務だ。
それを果たせないもどかしさ。そして父を失望させたという事実に、密かに項垂れてしまう。
そんなエルネスタに、父は重いため息をついた後、渋い顔を向けた。
「実はお前に、新しい縁談がある」
「うぇっ!?」
思いもよらぬ言葉に、ついつい声が裏返ってしまう。
「縁談? 昨日婚約破棄されたばかりの私に、でございますか?」
「先日、国王陛下から打診があった。その時はまだお前が婚約中の身であったため、一旦お断りしたのだが……」
珍しく口ごもる父の姿に、エルネスタは彼と国王との間でどんなやりとりがあったかを察する。
要約すると『どうせまた婚約破棄になるだろうから、保留にしておいてほしい』とでも言われたのだろう。
「お相手は一体……」
「ヴィンフリート・ヴァレンシュタイン伯爵。オルヴァン王国軍中将だ。華やかな場は嫌いで、パーティ-などには滅多に姿を見せないそうだが、お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう」
「ええ、それはもちろん」
ヴァレンシュタイン伯爵家といえば、代々有名な軍人を輩出してきた優秀な武門一族だ。
元々は平民の身分だったものの、先の戦においてその功績をたたえられ爵位を賜った、新興貴族の一員でもある。
ヴィンフリート自身も、国境付近における隣国との紛争を見事平定したとして、国王から勲章を授与されたそうだ。
しかし青い血の貴族たちは、武門出身の彼らを同じ貴族とは認めたくないらしい。
新興貴族を成り上がりと馬鹿にし、煙たがり、隙あらばその地位から引きずり下ろそうとしている。
そして新興貴族のほうも、そうした血統貴族の鼻持ちならない態度に辟易し、両者の溝はますます深まっていく一方だ。
「七大魔術師のひとりを祖に持つローゼンミュラーと、新興貴族の筆頭とも言えるヴァレンシュタイン。陛下は、両家が結婚という形で結ばれれば、新興貴族と血統貴族の間の架け橋になるかもしれないとお考えだ」
「そうでしたか……」
確かに、身内同士いつまでもいがみ合っていても仕方がない。
貴族には王家に忠誠を誓い、国を守るという義務がある。そのためには結束と協力が不可欠なのだ。
「とはいえ、お前はどう思う。もし、少しでも嫌だと思うのなら――」
思いがけぬ問いに、エルネスタはまたたきを繰りかえした。
国王からもたらされた縁談ならば、一介の貴族令嬢が断る余地などないだろう。まさかここで、自分の意思を問われるとは考えもしなかった。
一歩立ち止まって、考えてみる。
嫌だ、とは思わなかった。
かつて新興貴族たちは、国のため命をかけて戦ってくれた。そんな彼らに感謝こそすれ、蔑みなどするはずもない。
そしてヴィンフリート自身も、功績を見る限り立派な軍人であることは間違いない。
四度も婚約破棄された令嬢にとっては、これ以上ないほどの良縁だ。
家のため、国のため、国王陛下のため。
父から教え込まれた『貴族の心得』は、エルネスタの胸に深く刻まれていた。
「いいえ、父上。我が家の、そしてこの国の未来のため、私は喜んでヴァレンシュタイン閣下に嫁ぎたいと思います」
そうして、エルネスタ・ローゼンミュラー侯爵令嬢は、ヴィンフリート・ヴァレンシュタイン中将の許へ嫁ぐこととなった。
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