第14話

 地獄の釜の火が入ってというのは物の喩えで、地獄に煮え立つ大釜などないのだが、お盆が終わって“目には目を、歯には歯を”の日常が戻るはずの地獄は、慌てふためいていいた。

 地上に帰されていた霊たちの一部が戻ってきていないのである。

 地獄を脱け出した彼らの行方を追って閻魔庁は大騒ぎである。篝火がうっすらと灯るだけの廊下を、幽鬼たちが行ったり来たり、普段はぴたりと閉まった十王たちの執務室も開きっぱなしで、ひっきりなしに幽鬼たちが出入りして、どこかせわしない。とはいえ、そこは幽鬼たち、物音ひとつたてるわけでもなく、実際は慌てているのかもしれないが、見た目には優雅に宙を舞っているかのように廊下を走りぬけている。

 スメラギが地獄の閻魔王室をたずねたのは、そんな騒ぎの最中であった。

「スメラギぃ! ええとこに来た~。ちょっと頼まれてンかぁ~」

 閻魔王室の開け放たれた扉をノックする間もなく、夜摩のほうが目ざとくスメラギをみつけ、猫なで声ですり寄ってきた。

「気持ち悪りぃ、それ以上近寄るなっ!」

 スメラギは反射的に体をひいた。

「“気持ち悪い”って、なんや。こんな美女つかまえて」

 夜摩は見事なブロンドの巻き毛を指先に絡めてみせ、腰をひねってしなをつくってみせた。

 真紅の瞳の流し目が、薄紫色のアイシャドーでさらに艶かしさを増している。ふっくらと肉感的な唇は赤く艶めいて、真珠のごとくにきらめく歯がのぞいている。

 人の皮をなめして血で染め上げたというボディースーツは、細くくびれた腰と豊満な胸とを露にし、さすがは地獄の閻魔王、人間ばなれした身震いするほどのスタイルの良さと美女ぶりだ。

 ただし、口を開かずに黙っていたら、である。

「女は相変わらず苦手かいナ」

「お前、“女”じゃねーし」

 せいいっぱいの媚をこめたつもりのその声は腹の底に響くほど低い。夜摩は男だ。その豊満な胸は、地獄におちた女の胸から切り取ったもので、夜摩はおもしろがってその胸をつけての女装を楽しんでいる。

「どうせ、脱獄幽鬼を捜索しろってんだろ? 毎年のことなんだから、いい加減何とかしたらどうだ? GPSをつけるとかさ」

「そないなもん、金がかかるさかい。あんさんに頼めば、タダでっしゃろ」

 地獄の沙汰も金次第、金にうるさい夜摩には金さえ積めば地獄行きも帳消しにしてもらえる。仮に地獄へ落ちたとしても、残った家族が金を送り続ければ地獄の刑期も短くなるという。噂では、夜摩は相当な金を貯め込んでいるらしかった。

 毎年、盆のあとに幽鬼たちが戻ってこないのは、実は夜摩が金を積まれてわざと逃がしているのではないかと、スメラギは睨んでいるが、あくまでも疑惑の範疇を出ない。

「金とは、日本円でないとだめなのか」と聞いたことがある。夜摩は「ドルでもユーロでも何でもええで」と、にんまり笑った。でも一番いいのは「金(きん)」だそうだ。通貨はその時々で価値が変わるが、金色の光はいつの時代の人々をも魅了する。

「あんたら人間のほうがよっぽど業突く張りやで」――PCなど、閻魔庁の設備の一部は、人間たちの業者から買い取ったものだ。もちろん、彼らは買い手が閻魔王だとは知らずに売りつけているのだったが。

「幽鬼探し、やってもいいぜ」

「ほんまにぃ!」

 抱きつこうとする夜摩を、スメラギは全力で拒んだ。

「そのかわり、頼みがある」

「閻魔王相手に取引とは、えらい度胸やな」

 語気が強まり、夜摩の紅蓮の瞳が光を増す。

「宮内小夜子を捜してほしい」

「なンや、まだ手紙を渡してなかったンかいな」

 死人のこの世での心残りを解消する仕事をしているスメラギは、とある老人から、宮内小夜子という女性に手紙を渡すよう依頼を受けた。スメラギは、まず死人の側から宮内小夜子捜しを始めた。生きていたら80歳を超えるだろう女性だったから、死んでいる可能性のほうが高いと踏んだのだ。

 この世のすべての命の情報が詰まった地獄の鬼籍データベースに“宮内小夜子”を照会したが、教えてもらった宮内小夜子は3人とも人違いだったというと、

「そんなはずおまへンで!」

 と夜摩は叫び、篁(たかむら)を呼び出した。

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