第5話
宮崎と名乗った老人の依頼、心残りは、生前渡しそびれた手紙を老人にかわって渡して欲しいというものだった。
宮崎老人は、左前の懐から大事そうに一通の手紙を取り出してみせた。長方形の封筒の四隅はかすかに黄ばんで年月をうかがわせたが、保存状態はきわめて良く、宛名の墨もいまだ黒々としていた。
よほど宮崎老人が大切に保管しておいたのだろう。表書きには住所と宛名が楷書で書かれてあった。点やハネははっきりと、払いの先まで筆先がのびている。のびやかな大きな字で、宛名は「宮内小夜子様」と読めた。手紙は恋文(ラブレター)で、相手は初恋の人だろうか。裏書には柏木孝雄とあった。
「戦友から渡してくれと頼まれた手紙です。いまはの際に頼まれたのですが、どうにも渡すことができませんで。あの世に柏木にあわせる顔がなく、どうも手紙のことが気がかりでおちおち死んでもいられないと思っていましたら、こちらのお迎えの方が、それなら、と、あなた様をご紹介くださいまして」
宮崎老人と柏木孝雄はインドシナ戦線を共に戦った。お互い学生であったこと、趣味が映画鑑賞と同じだったことから二人は意気投合した。戦線にあって映画などおおっぴらにできるはずものなく、二人は上官に隠れて互いのこれまで観た映画のあれこれを語りあい、そのうちに個人的なことまで打ち明ける仲になっていった。
もともとひんやりとした空気に包まれていた事務所だったが、霊体の宮崎老人が来たせいで、さらに冷え込みはきつくなった。
死人といると冷える。熱いコーヒーでも飲みたいぐらいだが、事務員の山口京子は相変わらず机にかじりついたまま、動こうともしない。依頼人にお茶のひとつも出さないなど気が利かないのだが、出したところで霊体は飲み食いはできないので、無駄になるだけではあったが。
「終戦の少し前でしたか。柏木が病に倒れたのです。マラリアでした。薬もろくにない戦地でしたから、彼は覚悟を決めたんでしょう。恋人の小夜子さんあてに手紙を書き、私に渡して欲しいと頼みました。二人は結婚の約束をしていました。柏木は手紙を私に託して安心したのか、気が抜けたようにあっという間に亡くなりました」
終戦後、復員した宮崎老人はその足で手紙の住所を訪ねたが、東京はどこも焦土と化し、あったはずの家も人もなく、それきり何の手がかりもなく、宮内小夜子の行方も知れず、60年もの歳月が流れてしまった。
「小夜子さんも、柏木の最期の思いを知りたいだろうと、どうにも気になりますので。どうぞ小夜子さんに手紙を渡してさしあげてください」
老人は何度も頭を下げ腰を折りして、死神とともに事務所を後にした。スメラギに手紙を託したからには心置きなくあの世に行くことができるだろう。地獄へ落ちるか、天上界にのぼるか、はたまた再び人の世に生を受けるかは、生前の行い次第、閻魔大王の裁き次第だ。
スメラギは、老人が残していった手紙を手に取った。60年の歳月を経たとは思えない状態の良いものだ。柏木孝雄の思いがこもり、誠実な友人、宮崎老人によって大切に今の今まで保管されていた手紙。
「生きてはいないか……」
手紙を大切に持ち続けていた宮崎老人もこの世の人ではない。生きていれば80過ぎ、宛名の主もまた、この世にはいない可能性のほうが高い。それならそれで、この依頼は案外簡単に片付きそうだ。
スメラギにとっては、生きた人間より死人たち相手の探偵業のほうがずっと簡単だ。生きた人間を捜索するにはいろいろとうるさい法の縛りがあるが、死人の捜索は閻魔大王のいる閻魔庁を訪れるだけで済む。
黒電話の受話器を取りダイヤルに手をかけたところで、スメラギは思いなおして受話器をおろし、事務所を出て行った。かと思うと、ものの1分もたたないうちに戻ってき、机の上に投げ出されてあった紫色のレンズの丸メガネをつかみとると再び事務所のドアを閉め、出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます