第396話『天使の羽音』


 獣の咆哮が……いや、ジャガーの叫び声が轟いていた。

 彼女たち・・・・の言葉は俺にはこう聞こえた。



”――家族なかまを助けろ!”



〖ぎゃぁあああ!? な、なんだ……この、なんでオレたちを襲ってきやがる!?〗


〖よりによってこんなタイミングでっ!〗


 俺を取り囲んでいた者たちの一部から悲鳴が上がる。

 そこでは全部で4頭のジャガーが大立ち回りを演じていた。


 そんなまさか、彼女たちは俺のために?

 あのとき助けた恩を返すために?


 ジャガーたちの足元には噛みつかれて、あるいは爪で切り裂かれて負傷した者たちが転がっていた。

 しかし、彼らも訓練を受けた者たち――すぐに立て直した。


〖近づけさせるな! 発砲を許可する!〗


〖畜生風情が、よくもやりやがって!〗


〖所詮は獣だ。一発、鉛玉を食らわせてやれば泡食って逃げていくだろうよ〗


 彼らはロシア語でそう連携を取りながら、銃を構えていた。

 そして、乾いた破裂音とともにマズルフラッシュが瞬き――。


〖なぁっ!? こいつら――銃弾を躱しやがった!?〗


 ジャガーたちは銃口を向けられた瞬間、それを避けるかのように飛び退いていた。

 そう、彼らは知っているのだ。


 銃弾の恐ろしさを。

 その痛みを。


 そして、その機動性を活かして側面から部隊を文字どおりに食い破っていく。

 だが……。


”――ぎゃあっ!?”


”息子っ!”


 さすがに数も練度も、以前に彼女たちが対峙した相手とは――俺とは比べものにならない。

 銃弾が当たり、返り討ちにされていく。


 そのとき、母ジャガーがひときわ大きく吼えた。

 空気がビリビリと震え、その迫力に銃という圧倒的な暴力を持っているはずの彼らに冷や汗が流れる。


 しかし、俺には彼女の言葉の意味が理解できていた。

 彼女はこう叫んだのだ。



”――逃げろ!”



 今、母ジャガーに全員の意識が向いていた。

 俺は迷わなかった。


 背を向けて駆け出していた。

 脱走に彼らが気づくには、数秒のタイムラグがあった。


〖しまった!? クソっ、早く追いかけろ!〗


 ジャガーたちの奮戦でできていた包囲の穴から、俺は抜け出していた。

 だが、俺と彼らでは足の速さがちがう。


 一度は逃げたとしても、またすぐに捕まってしまうだろう。

 それでも走ったのは――ジャガーたちの想いをムダにしないため。


 それだけはしちゃいけないと思った。

 だから、全力で走った。


「はぁっ、はぁっ……」


 口から荒い息が漏れる。

 木の根っこにつまづいて、何度も転びそうになる。


 どんどんと俺を追いかけてくる足音が近づいてくる。

 振り返る余裕もない。


 数秒、あるいは数十秒。

 俺が逃げ続けられたのはたったそれだけの時間だった。


「きゃっ!?」


〖このガキ、手間を取らせやがって!〗


 腕を掴まれてしまう。

 それでも俺は必死に抵抗を続けた。


「イヤっ! 離して!」


〖このっ、暴れてんじゃねぇよ!〗


「――ぁぐっ!?」


 ガッ! と銃のストックでこめかみを殴られる。

 ポタ、ポタ……と血が流れて、地面にしずくを垂らした。


 全身に力が入らなくなった。

 ガクン、と膝から崩れ落ちる。


〖はぁ、はぁっ……ようやく大人しくなりやがったか。ほら、来い!〗


 意識がもうろうとしていた。

 掴まれた腕を引っ張られる。


 そのままズルズルと引きずられるようにして、俺は連れて行かれた。

 ガリガリと地面で足がこすれてケガができ、血が滲んでいくが……相手はおかまいなしだった。


「ぁ……ぅ、あぁ……ぅぐ……」


〖これでようやく、こんな蒸し暑くて気分の悪い密林からはおさらば……ん?〗


 そのとき、だった。

 どこからともなく異音が聞こえてくる。


 ジャガーたちの鳴き声ではない。

 それは、むしろ銃の連射音にも近く……だが、決して発砲音そのものではない。


〖そ、そんなバカな……!?〗


 焦ったような声が聞こえた。

 彼は一層強引に俺を引っ張ってもとの場所に戻っていく。


 そこにはもうジャガーの姿はなくなっていた。

 だが、幸いにして死体は見当たらない。


 殺されたわけではなく、逃げおおせたようだ。

 かしこい彼女たちのことだ、みんなきっと無事だろう。


 それよりもこの音だ。

 これはいったい……。


〖隊長! あ、アレは!?〗


〖あぁ、どうやら……〗



〖――我々の作戦は失敗したらしい〗



 そこはすこし開けた場所になっており、見上げると空が見えた。

 青色の背景に浮かんでいた、それは……。


「――ヘリ?」


 あきらかに軍用とわかる迷彩柄のヘリコプターが何機も。

 一部はその機関銃をじっと、俺を捕まえに来た者たちへと向けていた。


 それと同時に、つぎつぎとラぺリングで兵士が降下してくる。

 その数は秘密裏に潜入してきた――比較的少数であった襲撃者たちとは比較にならない。


《全員、武器を放棄しなさい》


 勧告がヘリコプターから拡声されて聞こえてくる。

 それを聞いた『隊長』と呼ばれていたその男は――銃を地面に置いた。


 それに続くように次々と、ほかの面々も銃を下ろしていく。

 やがて、降りてきた者たちが次々と彼らを拘束していった。


 俺のもとへもひとりの兵士がやってきて、声をかけてくれる。

 それはずっと……ずっと、聞きたかったひと言だった。



《――あなたを助けに来ました》



「……ぁ、あぁ……あぁあああっ!」


 俺にはヘリコプターが天使に見えた。

 その空気を叩く爆音が天使の羽音に聞こえた。


 ジャガーが襲撃者たちを襲い、俺を逃がして作ってくれたあの数十秒が命運を分けた。

 もしその時間がなければ、俺は彼らに連れられて森の中を移動させられていた――空からは見つけられない場所へと行ってしまっていたかもしれない。


 俺はついに――助かったのだ。

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