第358話『バイリンガルは何語の夢を見るか?』

 俺は暗闇の中を漂っていた。

 そのまま、深く深く沈んでいく……そう思った、そのとき。


『イロハ!』『イロハちゃん!』『イロハサマ!』


 だれかに名前を呼ばれた気がした。

 光が道しるべのごとく、暗闇に差し込んでくる。


 声を頼りに、そこを目指して俺は浮上をはじめた。

 やがて……。


「――ぁ、ぅっ」


 俺はゆっくりとまぶたを上げた。

 むせ返りそうなほどの濃密な緑の匂いで、ここがどこかを思い出す。


(そうだ、ここ……アマゾンの奥地だ。俺、遭難してたんだった)


 俺は地面に横たわっていた。

 視線の先……伸ばされた腕の先にはスマートフォンが転がっていた。


 MyTubeの再生画面が表示されていた。

 シークバーが一番最後で停止している。


(そっか、動画を再生したまま気を失っていたのか)


 動画のタイトルを見て、それが『”賭けベット”ゲーム』配信のときのアーカイブだったと気づく。

 普段は自分の配信を見返したりしないのだが、このときは俺がいない場面での会話があったから……一応、と思ってダウンロードしてきていたのだ。


「みん、な……けほっ、こほっ」


 声を出そうとすると、か細い、かすれた咳がこぼれた。

 もう水なしで3日目に突入している。今日がデッドライン。


(そうだった、これが現実だ。あはは……さっきのは本当に幸せな夢だったな)


 今はもう、あの場所がずっと遠く感じる。

 俺は再びゆっくりとまぶたを下ろしていく。


(助けられなくて、ごめんなさい)


 シークレットサービスの女性に心の中で謝罪する。

 けれど、もう身体が動かないのだ。


(どうせ死ぬなら……)


 ツラい現実で息絶えるより幸せな夢の中で眠りたい。

 もう一度、夢が見たい。そう思った。


 次に夢を見るとしたら、どんなのがいいだろう?

 そうだ、海外勢とのコラボなんかがいいかも。


(そういえばだれかに聞かれたことがあったっけ。『マルチリンガルは何語で夢を見るの?』って)


 俺の場合、登場人物によって変わる。

 話している相手が外国人なら外国語だし、日本人なら日本語。


(”思考”と同じだ)


 英語でしゃべっているときは、頭の中でも英語で考えている。

 あくまで基本的には、だけど。


 『チートじみた翻訳能力』から『言語チート能力』になってからは、ずっとそうだ。

 そこで、続いて質問されたのが……。


(じゃあ、『ひとりぼっちの夢は?』だったな)


 ほかの登場人物がいない夢。

 自分ひとりしか出てこない夢。


 その場合は場所など、シチュエーションや内容で変わってくる。

 実家なら日本語だし、アメリカなら英語。


(って、あはは……こんなときまで言語学か)


 けれど、この能力が俺をみんなと引き合わせてくれたんだ。

 俺はこの能力に感謝した。たとえ最後は役に立たなかったとしても。


 そうして、俺は完全にまぶたを下ろした。

 再び、世界は暗闇に包まれ……。



『――ダメぇ~、イロハちゃんぅ~! 死んじゃイヤだよぉ~っ!』



 だれかの泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。

 ははっ、わかってる。こんなのは幻聴だ。


 ポタリと涙が俺の頬に降ってくる。わかってる、これも幻覚だ。

 俺はそのまま深い眠りへと落ちていく。


「……」


 ポタリ、ポタリポタリ……ポタポタポタ。

 涙は止めどなく俺の頬に、いや全身へと次々に降ってきていた。


 いや待て、ちがう!? これは!?

 俺は気づき、ガバっと身体を起こした。


「まさか……雨、なのか?」


 泣いていたのは空だった。

 あっという間にザーっ! という豪雨へ変わった。


 いわゆるスコールだろうか。

 あれだけ望んでいた水が、こんなにたくさん……。


「はぁ、はぁっ……ん、こくっ……ゴクンっ……ぷはぁっ!」


 俺は口を開き、空から降ってくるその水分を受け止めていた。

 全身でその雨を感じながら、雨水へと必死に舌を伸ばす。


「あっ、うっ……うぅっ、うぁあああっ!」


 気づくと俺は声を出して泣いていた。

 泣きながら雨水を飲んでいた。


 あぁ、俺は今――生きているんだ。


 ”生”をはっきりと感じた。

 まさしく、それは恵みの雨だった。


 世界が俺に「まだ死ぬな」と語りかけているのが、聞こえる気さえする。

 俺はめいっぱい雨水を堪能し、それから我に返った。


「っ! そ、そうだ!」


 頭が回りはじめていた。

 デデカミンの空きボトルに雨水を溜めはじめる。


 十分に溜まったことを確認すると、それをシークレットサービスの女性の口元へと差し出した。

 しかし、反応がない。俺は必死に彼女へと呼びかける。


《飲んで! 飲んでください! まだ死んじゃダメです!》


《……、……こ、くっ》


 シークレットサービスの女性のどが、かすかに動く。

 水を胃へと運んだ。


「……はぁ。よかった、間に合った」


 俺は安堵の息を吐いた。

 シークレットサービスの女性もまだ生きるのを諦めていない。必死に抗っている。


「助かった、本当に運がよかった」


 もし雨が降ってこなかったら。

 いや、降ってきたとしても、もし俺が意識を失ったままだったら……。


「みんなのおかげだ」


 幻聴に助けられた。彼女たちの声が命を繋いでくれた。

 俺たちはギリギリでデッドラインを乗り越えたのだ。


 しかし、俺はまだ自然の恐ろしさわかっていなかった。

 次なる脅威がすでに俺たちへと襲いかかっていた。


「水分はありがたい。けど……いったい、いつになったら止むんだ?」


 救いだったはずの雨。

 それが、本性を見せはじめていた――。

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